伝記
ガヴリロ・プリンツィプは、1894年7月25日にボスニア・ヘルツェゴヴィナで、セルビア人農家のペータルとマリアの息子として生まれた民族運動家である。1914年6月28日にサラエヴォで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺し、第一次世界大戦の引き金となるサラエボ事件を起こした。兄弟は9人いたが、うち6人が乳児期に病死した。そのような家庭環境を鑑みたセルビア正教会の主教が、「病弱な子が育つのに役立つだろう」と提案し、大天使ガブリエルの名から「ガヴリロ」と名付けられた。両親はムスリムの大地主の下で働く貧しい農家で、父は青年期にオスマン帝国に対するヘルツェゴヴィナ蜂起に加わった。蜂起後、暮らしはますます貧しくなり、村からダルマチアへ人々を運ぶ輸送業務で家族を養った。
1903年、父の反対を押し切る形で小学校に進学し、優秀な成績を挙げて、校長からセルビア叙事詩を授与された。13歳のとき、オーストリア=ハンガリー軍の士官学校に入れようとする兄ジョヴァンに誘われ、サラエボに移り住んだ。しかし、兄は弟を士官学校に入れることを諦め、代わりに商業学校に入学させ、森林伐採工場で働いて得た収入で授業料を支払った。1910年に故郷に戻ってギムナジウムに進学し、同年のボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督暗殺未遂事件を起こして処刑された人物に強い影響を受け、大セルビア主義に傾倒した。1911年、セルビアの分離独立を目指す革命組織に参加し、メンバーと秘密裏に会合を重ねて、文学や倫理、政治について語り合った。1912年に反オーストリア=ハンガリー帝国デモを主催したため、ギムナジウムから退学処分を受け、サラエボを離れて、ベオグラードに徒歩で向かった。セルビア国境を越えた際には、跪いて地面にキスしたという。
ベオグラードで、黒手組のメンバーの少佐に、オスマン帝国へのゲリラ運動に参加したいと志願したが、身長が基準に達していないとして拒否された。サラエボに戻って数か月を過ごした後、反オスマン組織のメンバーと接触し、仲間15人と共にヴラニェの訓練所に派遣され、暗殺や爆弾製造の訓練を受けた。1914年6月、サラエヴォで軍事演習が行われることになり、フランツ・フェルディナントが妃ゾフィーとともに視察に訪れた。黒手組はその暗殺を計画し、プリンツィプも計画に加わった。メンバー7人が街道に待機し、車列を襲撃する算段となった。6月28日午前10時15分、仲間が夫妻の車に爆弾を投げつけたが、4台目の車の通過時に爆発し、市民ら14人が負傷した。残り5人は混乱する群衆に阻まれ、暗殺を決行できなかった。
大公は、負傷者を見舞うため病院に向かったが、運転手にルートの変更が伝えられておらず、車は道を間違えて、フランツ・ヨーゼフ通りに入り、カフェで食事をしていたプリンツィプと遭遇した。プリンツィプは拳銃を取り出し、1.5メートルの距離から発砲し、1発目をゾフィーの腹部に、2発目を大公の首に命中させた。夫妻は午前11時前に死亡した。プリンツィプは青酸を飲んで自殺を図ったが、不良品で効果がなく、群衆に取り押さえられた。犯行時に20歳に達していなかったため死刑を免れ、懲役20年の刑を宣告された。テレージエンシュタット要塞刑務所に収監され、劣悪な環境で持病の結核が悪化して右腕を切断し、事件から3年10か月後の1918年4月28日に獄中で病死した。死亡時の体重は40キログラムしかなかった。
同じ年に亡くなった人物
- アーニー・パーカー (1918年没)
- ミルコ・ペトロヴィチ (1918年没)
- ジョン・L・サリバン (1918年没)
- チャールズ・W・フェアバンクス (1918年没)
- イヴァン・ツァンカル (1918年没)
同じ地域に関係する人物
- カレル・ヒネク・マーハ (1836年没)
- ゾフィー・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト (1835年没)
- Charlotte von Ahlefeld (1849年没)
- アルフレート・フラトー (1942年没)
- Vaclav Kozak (2004年没)