HISTORICAL PERSON · 1918年没

ニコライ2世 (ロシア皇帝)

ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝。日露戦争と第一次世界大戦で指導的役割を果たしたが、革命勢力の弾圧がロシア革命を招き、一家とともに銃殺された。

生涯
1918年没
死亡地
ロシア連邦(スヴェルドロフスク州 / エカテリンブルク)
出生地
ロシア連邦(プーシキン)
出典
世界地図
ロシア連邦(スヴェルドロフスク州)

伝記

ニコライ2世は、1868年5月18日(ユリウス暦5月6日)に、サンクトペテルブルクで、皇太子アレクサンドル(後のアレクサンドル3世)とその妃マリア・フョードロヴナの長男として生まれた、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝である。母はデンマーク国王クリスチャン9世の第2王女であった。名は、父の兄で母の元婚約者であった、故皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチに由来する。弟にゲオルギーとミハイル、妹にクセニアとオリガがいる。7歳から10歳まで家庭教師に師事し、その後は、保守的なダニーロヴィチ将軍が選んだ教師によって、語学、数学、歴史、地理、科学などを学んだ。とりわけ歴史と語学が得意で、ロシア語に加えて、フランス語、英語、ドイツ語を流暢に話せるようになった。1881年には祖父のアレクサンドル2世が爆弾テロで暗殺され、その痛ましい姿を見た父は、専制政治の強化を決意し、ニコライも決意を同じくしたという。

17歳の1885年から帝王学を受けるようになり、高名な法学者ポベドノスツェフから民政法を、元大蔵大臣から政治経済学を、将軍たちから軍事学を学んだ。ポベドノスツェフの回顧録によれば、ニコライは勉強熱心ではなかったが、その専制君主体制護持の思想には、強い影響を受けた。19歳でプレオブラジェンスキー近衛連隊に入隊し、近衛連隊の将校クラブで楽しく過ごしたという。両親の勧めで、1890年10月から1891年8月にかけて世界各地を旅行した。旅行の中心地は、イギリスとロシアが勢力圏争いをしている極東だった。ギリシャ国王の次男ゲオルギオスが同行し、エジプト、英領インド、シンガポール、バンコク、香港、上海などを歴訪したのち、最後に日本を訪問した。

1891年4月27日に長崎に寄港し、5月19日まで日本に滞在した。日本政府はこの未来のロシア皇帝を国賓待遇で迎え、有栖川宮威仁親王が接待係に任命された。長崎では、お忍びで町を探索し、日記に「日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正反対だ」と書いて、右腕に竜の彫り物を入れた。5月6日に鹿児島に入り、島津忠義の歓迎を受けた。5月9日に神戸から汽車で京都へ向かい、京都を気に入って、モスクワになぞらえていた。5月11日、大津から京都へ戻る途中、人力車に乗っていたニコライに、警察官の津田三蔵がサーベルで斬りかかり、右耳上部を負傷させた。切り傷そのものはそれほど深くなかったが、頭蓋骨に裂傷が入り、これ以降ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになった。大津事件である。ゲオルギオスが竹の杖で津田をひるませ、人力車の車夫たちが取り押さえた。ニコライは車夫の二人に勲章を送っている。

報せを受けた明治天皇はただちに京都へ行幸して見舞い、犯人の処罰を確約した。ニコライは、父アレクサンドル3世の指示で東京訪問を中止し、5月19日に帰国の途についた。日本国民の世論は同情で占められ、畠山勇子という女性が自害し、国内外に衝撃を呼んだ。津田は死刑にならず、無期徒刑に処された。のちに1894年11月に即位したニコライ2世は、日露戦争と第一次世界大戦で指導的な役割を果たしたが、革命勢力を厳しく弾圧したためにロシア革命を招いた。1917年3月15日に退位し、1918年7月17日未明、エカテリンブルクのイパチェフ館で、一家ともども銃殺された。皇后はヘッセン大公女アレクサンドラ・フョードロヴナで、皇子女に、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアの四皇女と、アレクセイ皇太子がいる。ロシア正教会の聖人(新致命者)に列せられている。

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