伝記
オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァは、1895年11月15日(ユリウス暦11月3日)にツァールスコエ・セローで生まれ、1918年7月17日に没した、ロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第1子で、第一皇女である。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって、家族とともに監禁され、十月革命で権力を握ったボリシェヴィキの命を受けたチェーカーによって、翌1918年7月17日、エカテリンブルクのイパチェフ館で、家族・従者とともに銃殺された。正教会では新致命者として聖人とされる。難産だったが、体重は約4.5キロ、体長は55センチで生まれ、頭部には髪が生えていたため、新生児には見えなかったと伝わる。1899年の秋にダルムシュタットを訪れ、地元のおもちゃ屋で自分用と贈り物用にどれを選んでもよいと言われた際、オリガは一番小さなおもちゃだけを選び、他のおもちゃを買うことを拒んだ。美しいおもちゃは他の女の子のものではないかと、その子が悲しむことを考えたからだった。
感受性が強く、宮殿で飛び交う意見に敏感だった。日露戦争が始まると、「ロシア兵が日本人を全員殺してくれることを願う」と言って家庭教師を驚かせたが、諭されて考え込んだ後、「日本人が私たちと同じ人間だとは知りませんでした」と答えた。金髪の波状毛に明るい青の瞳、賢そうな広い額をしていた。妹のタチアナやマリアほど美しくはないと一般に見なされたが、母の友人は15歳のオリガを明らかに美しかったと書いた。教養が深く、あらゆる面で才能を発揮した皇女と言われる。4姉妹は連名のサインを結束の象徴として使い、仲が良く、オリガとタチアナは一つの寝室を共有した。絶対音感を持ち、耳で聞いたどんなメロディーも演奏できたという。父に似ていて、父を深く慕い、頑固で意志が強く情け深い性格だったが、粗野で率直すぎる面もあり、母のアレクサンドラとは反りが合わなかったと言われる。
1913年のロマノフ朝300周年のころ、結婚適齢期のオリガはますます注目された。又従兄のルーマニア王太子カロルや、イギリス王太子エドワードとの縁談もあったが、本人は「私はロシア人だからロシアに残りたい」と言い、外国の王族との結婚には気が進まなかった。第一次世界大戦が勃発すると、母とタチアナとともに看護師として病院で働いたが、手術室の悲惨な恐怖に耐えられず神経衰弱になり、事務的な仕事を任されるようになった。母のアレクサンドラは、特にオリガとの付き合いがますます難しくなったと夫への手紙に書いている。1916年12月にラスプーチンがドミトリー大公らに殺害されると、一家から殺人者が出たことを恥じ、ラスプーチンの葬儀には家族で唯一出席しなかったと言われる。
1917年2月、二月革命が勃発した。混乱の中でオリガとアレクセイが最初に麻疹に感染し、回復に向かう中で、母から、父が退位し、全員が自宅軟禁下にあることを知らされた。3月21日に一家はツァールスコエ・セローの宮殿で逮捕された。8月にトボリスクの旧知事公舎に移された。両親とマリアが先にエカテリンブルクへ移送され、オリガはタチアナ、アナスタシア、アレクセイとともにトボリスクに残り、家庭教師は、彼女が家族の誰よりも状況とその危険性を理解していたようだと書いている。1918年5月23日、両親やマリアと合流して再会を喜び合ったが、イパチェフ館での生活では、看守が一家の顔にタバコの煙を吹きかけるなどの無作法を働き、庭の散歩は1日1回、次第に5分のみ許された。7月17日未明、一家はこの館で殺害された。
同じ年に亡くなった人物
- ウラジーミル・パーリィ (1918年没)
- ルクレティア・ガーフィールド (1918年没)
- エヴァルト・ヘリング (1918年没)
- Elizabeth Wolstenholme Elmy (1918年没)
- イヴァン・ネチューイ=レヴィーツィクィイ (1918年没)
同じ地域に関係する人物
- アンナ・デミドヴァ (1918年没)
- パヴリク・モロゾフ (1932年没)
- Boris Ryzhy (2001年没)
- セルゲイ・ミハイロヴィチ (1918年没)
- イーゴリ・コンスタンチノヴィチ (1918年没)