伝記
ギヨーム・アポリネールは、1880年8月26日に生まれ、1918年11月9日に没したフランスの詩人、小説家、美術・文芸評論家である。「ミラボー橋」を含む自由律の詩集『アルコール』や、ピカソ、ブラック、ローランサンらを絶賛した評論『キュビスムの画家たち』、小説『虐殺された詩人』、戯曲『ティレジアスの乳房』などがある。シュルレアリスムやカリグラムという語も彼の造語である。
イタリア王国のローマで、ポーランド貴族の娘である母アンジェリックの子として生まれた。出生時の名はグリエルモ・アルベルト・ヴラディミロ・アレッサンドロ・アポリナーレ・デ・コストロヴィツキで、父は不明である。1882年に弟アルベールが生まれ、1888年にモナコに定住した。コレージュを経て、ニースのリセに入学し、優秀な学生でフランス語と算数の一等賞を受けた。同窓生のトゥーサン=リュカとは同人誌を刊行し、筆名で詩を発表した。1894年にドレフュス事件が起こると、ドレフュス支持を明言した。1897年に大学入学資格試験の口頭試験に失敗し、モナコの母のもとへ帰ると、図書館に通って医学雑誌から中世文学、紀行まで様々な書物を読み、特にマラルメから大きな影響を受けた。1899年に母のもとを去り、最後にパリに居を定めて、マザラン図書館に通い、セーヌ河畔を巡りながら読書に没頭した。
1899年夏、一家はベルギーのスパに滞在したが、母が賭け事の借金で姿をくらまし、弟と二人で宿に置き去りにされた。カフェの娘マリア・デュボワに出会い、ワロン方言に親しみ、弟とアルデンヌ地方を散策した体験は、のちに『スタヴロ詩篇』で語られた。持参金が尽きて、兄弟は宿代を払わず夜逃げし、森を抜けてパリ行きの汽車に乗った。パリでの生活は窮乏を極め、1900年には弁護士のゴーストライターとして、推理小説風の小説を新聞に連載したが、原稿料は支払われなかった。この頃、友人の妹ランダ・モリナ・ダ・シルヴァに熱烈な愛の詩を書き送ったが、結婚の申し込みはあっさり拒絶された。株式取引所の書記に採用されたが失職し、生活費のために性愛小説を偽名で書いた。やがてミロー子爵夫人の娘の家庭教師の職を得て、ライン河畔に同行し、英国人女性アンニー・プレイデンに出会い、再び熱烈な手紙を書き送った。ドイツ各地を旅して、クラナッハやホルバイン、印象派の画家、ロダンの作品に出会ったことが、芸術評論を書くきっかけとなった。アンニーもまた愛を拒み、追いかけて渡英して結婚を申し込んだが、断られた。この経験から後に詩集『アルコール』に収められる「恋を失った男の歌」が生まれた。
1902年の秋頃から、芸術・文学雑誌に寄稿し始めた。1903年4月、パリのカフェの地下で行われた雑誌の夜会で、アルフレッド・ジャリらと出会い、この出会いを機に、文学雑誌『イソップの饗宴』を創刊した。同誌には、のちの処女短編集『異端教祖株式会社』に収められる作品や、代表作『腐ってゆく魔術師』が掲載された。1904年には、再刊された『メルキュール・ド・フランス』誌にも初めて随筆を掲載した。画家のドランやヴラマンクと知り合い、1905年には木造家屋「洗濯船」でピカソに会い、マックス・ジャコブらとも親しくなった。『ラ・プリュム』誌の1905年5月号には「若者たち ― 画家ピカソ」を発表した。1907年に性愛小説『一万一千本の鞭』を発表し、作者名はイニシャルで示されて、本書は発禁となった。マティスやブラック、ドローネーらフォーヴィスムの画家にも出会い、評論を書いた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・L・サリバン (1918年没)
- アレクサンドル・シャルル・ルコック (1918年没)
- リリ・ブーランジェ (1918年没)
- チャールズ・ヒューバート・パリー (1918年没)
- アンナ・ドストエーフスカヤ (1918年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・ポール・ジョーンズ (軍人) (1792年没)
- マリー・デュプレシ (1847年没)
- ギー・モレ (1975年没)
- Ion Emanuel Florescu (1893年没)
- Henri Jobier (1930年没)