伝記
アモーリー1世は、第6代のエルサレム国王(在位1163年から1174年)である。1136年に、フルクとメリザンド夫妻の子として生まれ、先王ボードゥアン3世の弟にあたる。次の国王ボードゥアン4世の父でもある。1157年にアニェス・ド・クルトネーと結婚したが、1162年に婚姻は無効とされた。1163年に兄ボードゥアン3世が没すると王位につき、エジプトの征服をもくろんだ。当時、エジプトを支配するファーティマ朝は宰相たちの権力争いで混乱しており、宰相たちは貢納金を払っていた。
1163年、宰相シャーワルが権力争いに敗れてシリアへ逃れたことによる混乱を見越し、貢納金6万ディナールが期限までに払われていないことを口実に、アモーリーはエジプトへ攻め入った。シナイ半島を横切って、ナイル沿いの町ビルバイスを囲んだが、9月はナイル川の増水期で、守る側が堤を何か所か切ってエルサレム軍を水攻めにしたため、撤退した。この事件でアモーリーの野心を知ったヌールッディーンも、エジプトを得ようと目論み、配下の武将シールクーフを送った。1164年4月、シャーワルを連れたシールクーフの軍2000騎がエジプトに入り、ビルバイスを奪って、5月1日にカイロの城壁の下に陣を張った。シャーワルが宰相に返り咲いた。だがシャーワルは、約束を破って、シールクーフに退去を求め、アモーリーに援軍を頼んだ。同年7月、アモーリーはふたたびエジプトへ出て、シールクーフのこもるビルバイスを包囲した。これを知ったヌールッディーンは、アンティオキア公領のハリムの城を攻め落とし、留守を預かっていたアンティオキア公ボエモン3世とトリポリ伯レーモン3世を捕虜にした。背後を脅かされたアモーリーは撤退に追い込まれ、アモーリーとシールクーフは同時にエジプトを去ることになり、アモーリーは10月末に去った。
1167年の初め、両者はふたたびエジプトへ進み、アモーリーはシャーワルの軍とともにシールクーフを待ち構えたが、3月18日にアル・バーバイン近くで連合軍は敗れた。シールクーフがアレクサンドリアを奪ったと聞いて、アモーリーとシャーワルは町を囲んだ。やがて講和が成って、8月に両軍は引き揚げた。エルサレム王国は、エジプトとの正式な同盟、10万ディナールの貢納、フランク軍のカイロ駐留を得た。この年、アモーリーはビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスの甥の娘マリアと結婚した。ところが、貢納と駐留軍のためにエジプトでは反フランクの感情がくすぶりはじめた。1168年10月、アモーリーは四度目の遠征に出た。テンプル騎士団はこの遠征に反対して参加せず、聖ヨハネ騎士団は大兵力を出した。エルサレム軍はビルバイスで住民を虐殺し、この事件はカイロの親フランクの人々にまで徹底して抗戦する決意をさせた。シャーワルはカイロの旧市街に火を放たせた。カリフのアル・アーディドがヌールッディーンに救援を求めたため、シールクーフが三度目に送られ、1169年1月2日にアモーリーは撤退した。シールクーフが着いたのは、その6日後であった。シャーワルは殺され、サラディンがエジプトの宰相となり、アモーリーは同盟と貢納という成果をすべて失った。
1169年10月、五度目にして最後のエジプト遠征で、アモーリーはダミエッタを奪おうとしたが、サラディンに撃退された。1174年7月11日、シチリア王国の海軍の支援を受けるエジプト遠征を準備している最中に、赤痢で没した。38歳であった。王位は13歳の息子ボードゥアン4世が継いだ。アラブ人からは「御しがたい野心の持ち主」と評された。
同じ年に亡くなった人物
- エバラール・デ・バレス (1174年)
- アンドレイ・ボゴリュブスキー (1174年没)
- ヴラジスラフ2世 (1174年没)
- ヌールッディーン (1174年没)
- ユーディト・フォン・テューリンゲン (1174年)
同じ地域に関係する人物
- ザルマン・シャザール (1974年没)
- ミリアム・リヒタイム (2004年没)
- レオポルド・トレッペル (1982年没)
- ダビッド・エラザール (1976年没)
- イェフダ・ハレヴィ (1141年没)