HISTORICAL PERSON · 1917年没

エミール・テオドール・コッハー

スイスの外科学者。ベルン大学教授で、1876年に甲状腺の最初の全切除に成功し、手術の死亡率を18%から0.5%に下げた。肩関節脱臼のコッヘル法を残し、1909年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

生涯
1917年没
死亡地
スイス連邦(ベルン州 / ベルン)
出生地
スイス連邦(ベルン)
出典
世界地図
スイス連邦(ベルン州)

伝記

エミール・テオドール・コッハーは、1841年8月25日にスイスのベルンで生まれ、1917年7月27日に没したスイスの外科学者である。甲状腺の生理学・病理学・外科学に関する業績により、1909年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。無菌手術と科学的な方法を外科に導入し、普及させた人物で、スイス人として、また外科医として初めてノーベル医学賞を受けた。父ヤーコプ・アレクサンダーは鉄道技師で、1845年に職のためベルン近郊のブルクドルフに移り、のちにベルン州の道路・水道の主任技師となって、一家とともにベルンに戻った。母マリアは信仰の篤いモラヴィア教会の信徒で、5人の息子と1人の娘を育て、テオドールは次男だった。ブルクドルフで学校に入り、ベルンの実科学校と文学ギムナジウムでは首席だった。さまざまな科目に関心を持ち、特に芸術と古典文献学に引かれたが、最終的に医師になることを決めた。

1858年に大学入学資格を得てベルン大学に入り、1863年に卒業した。学位は1865年に取得した。論文のテーマは、クループ性肺炎のヴェラトルム製剤による治療であった。師ビールマーに従ってチューリヒに移り、テオドール・ビルロートに大きな影響を受けた。その後、ヨーロッパの高名な外科医に会うために旅に出て、ベルリンでランゲンベックに学び、1867年にはロンドンへ渡り、パリではパスツールとも会った。旅費の出所ははっきりしないが、モラヴィア教会の会員とみられる女性の篤志家から援助を受けたとされる。この旅で新しい技術を学ぶとともに、英語を流暢に話せるようになり、のちに英語圏の科学の進歩を楽に追えたという。1867年10月に大学教員資格を申請して認められた。1869年にマリー・ヴィッチと結婚し、三人の息子をもうけた。

1872年にベルン大学外科学教授となり、1911年まで務めた。師リュッケがシュトラスブルクに移ると、後任に推されたのは、スイスの大学ではドイツ人教授を任命するのが慣例だったため、まずフランツ・ケーニヒだった。しかし学生や助手、多くの医師がコッハーを望んで請願し、報道機関も彼を支持した。ランゲンベックやビルロートら外国の著名な外科医も手紙で支持し、世論の圧力のもと、ベルン州政府は1872年3月16日、学部の提案に反してコッハーを後任に選んだ。

業績は1870年に発表した肩関節の治療に関する論文に始まる。同時期に、内分泌器官である甲状腺の腫瘍の研究を始め、解剖から生理、病理へとテーマを広げて、治療法の開発に進んだ。周囲に血管や気管が密集する甲状腺の手術は、困難とされてきたが、1876年に最初の全切除に成功し、1883年には、全切除によってクレチン病に至ることを報告した。1880年に『閉鎖創傷について』を、1882年に『外科手術学』を著した。肩関節脱臼の整復法は「コッヘル法」と呼ばれ、現在も基本的な方法として用いられる。リスターの無菌手術法もスイスに導入した。甲状腺の手術の術式を改良し、1912年には甲状腺だけで5000例に達して、安全な術式を確立し、18%あった死亡率を0.5%まで下げた。

天才肌の外科医ではなく、手術に特に時間が短いわけでも、手先が速いわけでもなかったが、非常に慎重に進めると評判が高かった。術式の研究とともに、器具の改良にも励んだ。先端に鉤のついた鋸歯状の鉗子は、「コッヘル鉗子」と呼ばれ、現代の手術でも多用される。ノーベル賞の賞金は、基金としてベルンの研究所の設立に用いた。1967年にはスイスの切手に肖像が採用された。

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