伝記
ナビスは、紀元前206年から紀元前192年まで在位した、独立したスパルタの最後の王である。父はデマラトスといい、スパルタの貴族でおそらく同名の王デマラトスの子孫だったとされる。妻アペガはアルゴスの僭主アリスティッポスの娘で、子に息子アルメナスと娘がいた。当時のスパルタは、紀元前222年のセラシアの戦いでクレオメネス3世が敗れて以来、十五年以上も政治的な不安定と社会的な困窮が続いていた。紀元前207年、マンティネアの戦いでスパルタ王ペロプスの後見人マカニダスが敗死すると、ナビスがその後任に就いた。やがてエウリュポン朝の王デマラトスの子孫を自称してペロプスを廃し、紀元前206年に処刑して、王を称するに至った。ただしリウィウスやポリュビオスは彼を王とは呼ばず、僭主と呼んでいる。
権力を握ったナビスは、クレオメネス3世の路線を引き継いだ。裕福な者を追放して土地を再分配し、多くの奴隷やヘイロタイを解放して市民に加え、解放民と市民の結婚も奨励した。伝統的な二王制を廃し、護衛を置いて決定権を自分に集め、エフォロスや長老会の有力者を遠ざけた。市民の増加は兵力の増大につながり、傭兵三千人余りを雇い入れて、スパルタ再興の布石とした。市の防備のためには城壁も築いて固めた。残された貨幣にはナビスが王の記章をつけ、王を意味する称号とともに表されている。一方、ポリュビオスはナビスの支持者を殺人者や夜盗、追いはぎの集団と評し、残虐な暴君として描いたが、現存する史料の多くは敵対した側のものである点にも注意が要る。
対外的には、アイトリア、エリス、メッセネと結んでアカイア同盟やマケドニアと対立した。第一次マケドニア戦争の後にはラコニアとメッセネの大部分を征服し、クレタの助けで海軍も整えたが、紀元前204年のメガロポリス攻略には失敗した。紀元前201年にメッセネへ再び侵攻した際には、フィロポイメン率いるアカイア同盟軍にテゲアで決定的な敗北を喫し、退却を強いられた。以後もフィロポイメンは領土拡大を狙うナビスの前に立ちふさがり、ナビスは幾度も彼に敗れたが、ほかの将軍が相手のときには勝利を収めた。第二次マケドニア戦争ではマケドニアと同盟して代償にアルゴスを得たが、戦況がマケドニアに不利になるとローマ側に転じた。
紀元前195年、ローマのフラミニヌスはアカイア人に促され、アルゴスをアカイアに返すかローマと戦うかを迫った。ナビスが返還を拒むとラコニアに侵攻され、スパルタは敗れて、海への出口であったギュテイオン港を手放した。領土がスパルタ市とその周辺に縮んだ後も復興を諦めず、紀元前192年にローマ・シリア戦争に乗じてギュテイオンの奪回を試みた。港を占領し、海戦でアカイア同盟艦隊を破ったが、まもなくフィロポイメンに敗れて城壁まで追い詰められた。
数か月後、ナビスはアイトリア同盟に援軍を求め、歩兵千人と騎兵三百騎が送られた。だがアイトリア人は彼を裏切って暗殺した。アイトリア軍はそのままスパルタを占領しようとしたが、市民の暴動で失敗し、市民はアイトリア人を殺した。ナビスの死後はラコニクスが王となったが、アカイア同盟はこの混乱に乗じてフィロポイメンに大軍を預けて急派し、スパルタを同盟に加入させた。こうしてスパルタは独立国家の地位を失い、紀元前192年にラコニクスは退位し、スパルタ王の地位は廃止された。
同じ年に亡くなった人物
- 大ハンノ (紀元前 192年)
同じ地域に関係する人物
- アギス2世 (紀元前401年没)
- ロベール1世 (ラテン皇帝) (1228年没)
- エウダミダス3世 (紀元前228年没)
- コスタス・カリオタキス (1928年没)
- アンタルキダス (紀元前366)