伝記
ヘンリク・アダム・アレクサンデル・ピウス・シェンキェヴィチは、1846年5月5日に、当時ロシア帝国の一部だったポーランド立憲王国のヴォラ・オクジェイスカで生まれたポーランドの小説家である。リトフォスの筆名も用いた。零落したポーランド貴族の家に生まれ、父方の先祖は、キリスト教に改宗してシュラフタの資格を得たリプカ・タタール人であった。父はユゼフ、母はステファニア・チェチシュフスカで、古く裕福なポドラシェの家の出であった。兄のカジミエシュは、1863年から1864年の1月蜂起の際に亡くなり、ほかに4人の姉妹がいた。一家は何度か転居し、1858年9月にワルシャワで教育を受け始めて、1861年にワルシャワに落ち着いた。成績は人文科目、とりわけポーランド語と歴史を除いてかんばしくなかった。
19歳のとき、貧困のため家庭教師の職に就き、この頃に最初の小説を書いたが、原稿は自ら破棄したと考えられる。中等学校の課程を修了し、1866年に卒業の資格を得た。ワルシャワ帝国大学で、最初は医学、次に法律を学んだが、すぐに文献学・歴史学研究所に移り、古代ギリシア・ラテン文学と古いポーランド語を深く学んだ。この時期は、親の家を出て家庭教師をしながら貧しく暮らしたこと以外は、あまり分かっていない。1869年にジャーナリストとしてデビューし、1871年に大学の課程を終えたが、古代ギリシア語の試験に通らなかったため、卒業証書は得られなかった。新聞に「リトフォス」の筆名で書き、1873年から時評のコラムを連載した。1874年にはユゴーの最後の小説の翻訳にも協力した。
1872年に短編『無駄に』で小説家としてデビューし、『老僕』『ハニア』などで、ワルシャワの文壇の有力者となった。女優ヘレナ・モジェイェフスカが主催する夕食会の客にもなった。1874年にはマリア・ケラーと婚約し、ブリュッセルとパリを旅したが、帰国後、相手の両親が婚約を解消させた。1876年に、彼女(のちのモジェスカ)とともにアメリカへ渡り、アメリカ特派員となった。愛国心が強かった彼は、愛国者の勇敢な行為を激賞した歴史小説を著した。新聞に連載された彼の小説は当時大きな人気を得て、一世紀以上経った今も高く評価されている。『三部作』では、登場人物に17世紀に話されたであろう古いポーランド語を使わせた。ポーランド国内では、17世紀の英雄の活躍を描いた『火と剣とともに』『大洪水』『パン・ヴォウォディヨフスキ』で最もよく知られる。『大洪水』は、ラジヴィウ家の陰謀を、主人公ケミチッツが阻止する物語である。ほかに第二次ウィーン包囲やマフディーの乱を描いた作品がある。
国外では、ローマ皇帝ネロの時代を描いた『クォ・ヴァディス』が最も有名で、劇場上演の準備のためにパリに滞在中、1901年の予知夢の逸話が伝わる。1905年に「叙事詩作家としての顕著な功績のために」ノーベル文学賞を受賞した。しばしば『クォ・ヴァディス』で受賞したとされるが、それは誤りである。『クォ・ヴァディス』は何度も映画化され、最も有名なのは1951年のハリウッド版である。1916年11月15日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- カール・フォン・シュテュルク (1916年没)
- Aleksandr Voyeykov (1916年没)
- 上村彦之丞 (1916年没)
- ヴィルヘルム・ハンマースホイ (1916年没)
- ジョセフ・ジェイコブス (1916年没)
同じ地域に関係する人物
- リアーヌ・ド・プジー (1950年没)
- パウル・マルティン (1987年没)
- ジャック・フェデー (1948年没)
- レオン・ワルラス (1910年没)
- Edmond Boissier (1885年没)