伝記
ウロシュ2世は、1145年から1162年までセルビアの大公をつとめた人物で、ヴカノヴィチ家の出身である。父はウロシュ1世で、その長男として、1115年より前に生まれた。母の名はわかっておらず、セルビアの年代記は、「白いウロシュ」と呼ばれた人物の妻としてアナの名を挙げている。ベロシュとデサという2人の弟と、イェレナとマリヤという2人の妹がいた。
1129年か1130年に、妹のイェレナが、ハンガリー王イシュトヴァーン2世の後継者である王子ベーラ(のちのベーラ2世)と結婚した。弟のベロシュもハンガリーの宮廷に入り、イェレナとベロシュはともに大きな影響力を持つようになった。1134年には、妹のマリヤがズノイモの公コンラート2世と結婚した。このハンガリーとセルビアの同盟は、ビザンツ帝国からの独立をめざすウロシュ1世とウロシュ2世を支える力になりえた。1141年に、ベーラ2世とイェレナの子ゲーザ2世がハンガリー王位を継ぐと、ベロシュはハンガリーの宮廷で最も有力な人物となった。1143年にはマヌエル1世コムネノスがビザンツ皇帝となった。これ以後のある時期に、末弟のデサは、ドゥクリャのラドスラフの古くからの敵たちに招かれて、ゼータとトラヴニアを治めるようになった。ウロシュ2世が大公位についたのは1144年か1145年とされるが、1143年あるいは1146年とする説もある。1146年には、マヌエルのセルジューク朝のスルタン、マスウード1世への遠征にセルビア軍の援軍を送っている。しかし、デサがドゥクリャを圧迫したことからは、ウロシュ2世が反ビザンツの動きから治世を始めたことがうかがえる。
1147年に新しい十字軍が決まると、ドイツ王とフランス王の十字軍がビザンツ領を通ることになった。マヌエルはドイツ王と同盟を結び、フランス王はシチリアのロジェ2世と結んだ。ロジェ2世は秋にコルフ島を奪って戦争を始めた。1148年には、バルカン半島の情勢は、ビザンツとヴェネツィアの同盟と、シチリアのノルマン人とハンガリーの同盟に分かれていた。セルビアは、歴史上初めて、ヨーロッパの反ビザンツ同盟に加わった。
1149年、マヌエルがイタリアでロジェ2世を攻める計画を立てていたころ、ウロシュ2世はビザンツの国境を襲った。マヌエルは、ペラゴニアから北上してコソボの野を通り、ラスを奪い、将軍コンスタンティノス・アンゲロスに強い守備隊を残して進んだ。ウロシュ2世の直轄地であるニカヴァ州に入って、途中の要塞をたやすく征服し、ガリチでは多くの捕虜をとった。ウロシュ2世はラスでアンゲロスと戦い、ビザンツの小部隊を個別に攻めたが、会戦は避け、険しい地形を利用して西や北西の奥地へ退いた。マヌエルはウロシュ2世の所領を焼いたが、山中のセルビア人を追うことも、ウロシュ2世を捕らえることもできず、翌年にもう一度試みるため帰国した。ウロシュ2世は、リム川の西へ行き、ビザンツとの戦いを準備した。
1150年にも、マヌエル自らが率いる、より大規模な遠征が行われた。この2度の遠征はビザンツの勝利に終わり、ウロシュ2世は臣従の義務を新たにした。1153年にも、計画した反乱の後に、再び忠誠を誓った。1155年、ハンガリーに近い派閥によって追われ、末弟のデサが選ばれたが、マヌエルがウロシュ2世を支援したため、彼は復位した。以後は長くビザンツに忠実な君主として治めたが、1162年に起きた別の反乱で、地位を追われた。
同じ年に亡くなった人物
- オディエルナ (1162年没)
- ラモン・バランゲー4世 (1162年没)
- イジャスラフ3世 (1162年没)
- ホーコン2世 (ノルウェー王) (1162年没)
- ゲーザ2世 (ハンガリー王) (1162年没)
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