HISTORICAL PERSON · 1157年没

アフマド・サンジャル

セルジューク朝の君主。メルヴを都にホラーサーンを長く支配し、ニザール派暗殺教団と和平を結ぶなど大セルジューク朝最後の実力者として君臨した。

生涯
1157年没
死亡地
トルクメニスタン(マル州 / メルブ遺跡)
出生地
イラク共和国(シンジャル)
出典
世界地図
トルクメニスタン(マル州)

伝記

アフマド・サンジャルは、セルジューク朝の君主(スルターン)である。1086年11月6日にイラク北西部の町シンジャールで生まれた。父はスルターンのマリク・シャー、母はテュルク系の側室で、父の死後の後継者争いでは、同母兄のムハンマド・タパルに協力した。1097年、兄のバルキヤールクに従ってホラーサーン地方のバルフに遠征し、この地に駐屯した。若いサンジャルはアタベク(後見人)の保護下にあったが、自ら前線に立って戦い、1098年にはトハーリスターンのセルジューク朝の王子ダウラトシャーを破った。ホラーサーン総督ハバシュとの仲が悪くなり、1100年にバルキヤールクが攻めてきたが、サンジャルはこれに勝って、ホラーサーンの支配権を握った。

1101年か1102年、サンジャルが遠征で留守にしたすきに、西カラ・ハン朝の君主ジブラーイールがテルメズを占領した。サンジャルは引き返して彼を捕らえて処刑し、サマルカンドを攻めて王族ムハンマドを傀儡の君主に据えた。1104年1月の和約で、サンジャルはゴルガーンとホラーサーンを治めることになり、同年末にムハンマド・タパルがスルターンとなると、西部はこの兄が、東部はサンジャルが治める体制ができた。1107年にはゴール朝の支配者イッズッディーン・フサインを捕らえ、貢納と引き換えに釈放した。1117年にはガズナを落とし、従属を認めるバフラーム・シャーを王位に就けた。マリク・シャーの最盛期にもなしえなかった成果だという。

1118年にムハンマド・タパルが没し、子のマフムード2世が即位したが、サンジャルはその権威に服さなかった。1119年、ヤズドの支配者ガルシャースプ2世らの「五人の王」とともにマフムード2世を破り、娘を嫁がせて、自らが「大スルターン」、マフムード2世が副スルターンとなる体制を確立した。1121年にゴール朝を服属させた。1127年にはニザール派の本拠アラムートへ遠征した。ジュヴァイニーの伝承では、遠征中に目覚めると枕元に短剣があり、ニザール派の指導者ハサン・サッバーフが和平を望むと書いた紙がついていた。衝撃を受けたサンジャルは使者を送り、互いに干渉しないことに同意したと伝えられる。1130年に再びサマルカンドを攻めて、甥のマフムード・ハンを西カラ・ハン朝の君主とした。1138年には、臣従を拒んだホラズム・シャー朝のアトスズを破り、その長子を殺した。

1141年、サマルカンド近くのカトワーンで、カラ・キタイ軍と戦って大敗した。サンジャルは15人の騎兵だけを連れて逃れ、シルダリヤ川以東の領土をすべて失った。この敗戦に乗じてアトスズがメルヴを略奪し、サンジャルは1143年か1144年と1147年にホラズムへ遠征して屈服させた。1153年、移住してきたトゥルクマーンのグズの反乱を鎮めに向かったが、バルフ近郊で敗れ、妃とともに捕らえられた。拘束は1156年の秋まで続き、昼は玉座に座らされ、夜は牢につながれたという。同年にメルヴへ脱出したが、体力は失われていた。1157年5月8日に没し、後継の嗣子はなく、ホラーサーンは争いののち、ゴール朝とホラズム・シャー朝に征服された。モンゴル帝国以前のイスラム教徒の君主として最も在位が長く、治世は黄金期と讃えられる。カシュガルからメッカ、アナトリアにいたる地域で、金曜礼拝の説教にサンジャルの名が読まれた。のちホラズム・シャー朝では「第二のサンジャル」という君主号が用いられた。ペルシア語詩が栄え、宮廷にはアンワリーらが集まった。

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