伝記
ピウス10世は、本名をジュゼッペ・メルキオッレ・サルトといい、1835年6月2日に当時オーストリア帝国領だったロンバルド=ヴェネト王国のリエーゼで生まれ、1914年8月20日にローマで没した第257代ローマ教皇(在位1903年8月4日-1914年8月20日)である。カトリック教会の聖人であり、16世紀のピウス5世以来、約400年ぶりに列聖された教皇である。村の郵便配達人ジョヴァンニ・バッティスタ・サルトと、マルガリータ・サンソンの間の、10人きょうだいの第2子で、少年時代は貧しかった。それでも両親は教育を重んじ、ジュゼッペは毎日、約6キロの道を歩いて学校に通った。村の司祭からラテン語を学び、カステルフランコ・ヴェネトの中等学校で学んだ。1850年にトレヴィーゾの司教から剃髪を受け、教区の奨学金を得て、パドヴァの神学校に進み、古典、哲学、神学を優秀な成績で修めた。
1858年に司祭に叙階され、トンボロの助任司祭となった。ここで、重い病にあった主任司祭の仕事の大半をこなしながら、トマス・アクィナスの神学と教会法を学んだ。1867年にはザルツァーノの主任司祭となり、教会を修復し、病院を拡張した。1870年代初頭に、北イタリアでコレラが流行すると、病人のために働いて、人々から慕われた。その後、司教座聖堂参事会員やトレヴィーゾ教区の司教座の書記局長、神学校の霊的指導者、校長、聖職者の試験官などの役を務めた。1879年から1880年にかけて、空位となった同教区の代理を務めた。のちに教皇レオ13世によってマントヴァの司教に任命された。博士号がなかったため、教皇から特別の免除を受けた。のち枢機卿に叙され、ヴェネツィア総大司教に任命されたが、イタリア政府が総大司教の任命権を主張して難航し、1894年にようやく就任できた。
教皇になっても親族への優遇を一切退け、兄は郵便局員のまま、お気に入りの甥は村の司祭のままで、未婚の三人の姉妹はローマで質素に暮らした。1903年、レオ13世の死去に伴うコンクラーヴェで教皇に選出され、ピウス10世を名乗った。教皇在位中は、典礼改革と信仰生活の刷新を重視した。1903年の自発教令『トラ・レ・ソッレチトゥディーニ』で典礼音楽の規範を示し、信徒の典礼への参加を促した。1910年の教令『クアム・シンギュラリ』では、子どもの早期の初聖体拝領を奨励したため、「聖体の教皇」と呼ばれる。ローマ教皇庁の改革にも取り組み、教会法の体系的な整理を進め、1917年教会法典の編纂事業を開始した。1911年の自発教令では義務の祝日を整理した。近代主義神学(モダニズム)を教義に対する重大な脅威とみなし、1907年の回勅『パッセンディ・ドミニチ・グレジス』でこれを「諸異端の総合」と位置づけて体系的に批判した。この回勅は、20世紀初頭の反モダニズム運動の中心的な文書とされる。また1910年の書簡で、フランスのカトリック民主運動(シヨン運動)を批判した。
第一次世界大戦が勃発した直後の1914年8月20日に死去した。没後、聖性の評判が広まり、1954年5月29日に教皇ピウス12世によって列聖された。
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