伝記
フリードリヒ・レオポルト・アウグスト・ヴァイスマンは、1834年1月17日にフランクフルト・アム・マインで生まれた、ドイツの動物学者である。専門は発生学と遺伝学で、フライブルク大学動物学研究所の所長を務めた。エルンスト・マイアは彼を、ダーウィンに次いで19世紀で2番目に重要な進化理論家と表現した。古典と神学を学んだ高校教師の父ヨハン・コンラートと、市議会議員の娘である母エリーザの間に生まれた。上流階級の典型的な教育を受け、4歳から音楽を、14歳から絵のレッスンを受けた。ピアノの教師は熱心な蝶の収集家で、蝶や青虫の採集を彼に教えた。しかし自然科学は将来の仕事に関係ないと見なされ、家族の友人ヴェーラーからは、薬学の勉強を勧められた。16歳のときに母が亡くなり、その遺産によってゲッティンゲン大学で学ぶことができた。1856年に卒業すると、人体における馬尿酸の合成に関する論文を書いた。
卒業後はロストックの都市病院で助手の職を得て、のちにウィーンに留学し、医師の資格を取った。1859年に第二次イタリア独立戦争が起きると、軍医として従軍した。戦後はパリで研究休暇を過ごし、ギーセン大学でロイカルトとともに働いた。1861年から1863年には、追放されたオーストリア大公の一族の個人医としてフランクフルトに戻った。1863年からフライブルク大学で講師、1865年から教授となり、1873年から1911年まで動物学研究所の所長を務めた。1879年には、後に作曲家になる息子ユリウスが生まれている。1912年に引退し、1914年11月5日にフライブルクで死去した。
1868年にフライブルク大学の就任講義にダーウィニズムを選んだときから、この理論を非常に重要なものと見なしていた。最初に取り組んだのは、代替理論としてのキリスト教の創造論との比較であり、多くの生物学的現象が進化論の枠組みには綺麗に収まる一方、創造の結果とするなら多くが謎のまま残ると結論した。遺伝のメカニズムと、遺伝が進化に果たす役割についての考えは、幾度も変わった。当初は、器官の用不用というラマルク主義の考え方も用いたが、1883年に「遺伝について」と題した講義で、獲得形質を最初に否定した。強固な選択万能論者に転じて、生物の全ての特徴が自然選択によって形作られると宣言したが、中立的な形態の存在は認めていた。跳躍説も批判し、メンデルの再発見の後にも反対し続けた。
1883年に生殖質説を提唱した。多細胞生物では遺伝は精子や卵子のような生殖細胞によってのみ引き起こされ、体細胞は遺伝に関係しない。生殖細胞は体細胞が生涯で得た変化の影響を受けず、遺伝情報は体から生殖細胞に伝わらない。これをヴァイスマンバリアと呼ぶ。ウニの卵の発生を研究し、二つの細胞分裂を「赤道分裂」と「減数分裂」と名付けた。この粒子遺伝の仮定は、コレンスによれば、メンデル遺伝学の基礎となった。1,500匹のマウスの尾を切除した実験は、ラマルク遺伝が存在しないことを証明したとしばしば引用されるが、実際には、人為的に切除した親から生まれた5世代の子に異常がなかったと述べたものだった。1908年にダーウィン・メダルを受けた。生殖細胞と体細胞を区別する考えは、現在の進化生物学で一般に受け入れられている一方、近年は、その限界を含めて再検討されている。
同じ年に亡くなった人物
- 伊東祐亨 (1914年没)
- モーリス・オブ・バッテンバーグ (1914年没)
- モーデカイ・キュービット・クック (1914年没)
- アドレー・E・スティーブンソン (1914年没)
- オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク (1914年没)
同じ地域に関係する人物
- ルートヴィヒ・ウーラント (1862年没)
- ルートヴィヒ3世 (プファルツ選帝侯) (1436年没)
- ヨーゼフ・ゴットリープ・ケールロイター (1806年没)
- Efim Bogoljubov (1952年没)
- サロモン・ミューラー (1863年没)