HISTORICAL PERSON · 1149年没

ムイーヌッディーン・ウヌル

ブーリー朝のトルコ系アミール、アタベクで、サラーフッディーンとヌールッディーンの義父。幼い君主に代わり事実上ダマスカスを支配し、ザンギーの攻撃を退け、第2回十字軍も撃退して独立を守った。

生涯
1149年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ムイーヌッディーン・ウヌルは、生年は不詳で、1149年8月28日に没した、ブーリー朝のトルコ系アミールでアタベクである。幼い君主に代わって事実上ダマスカスを治め、第2回十字軍を退け、ザンギー朝のザンギーの攻撃もよく防いで、ダマスカスの独立を守った。のちにザンギー朝のヌールッディーンの舅となり、その娘はヌールッディーンの死後にアイユーブ朝のサラーフッディーンと再婚した。もとはブーリー朝の始祖トゥグテキンのマムルークで、その死後もブーリー朝に仕えていたようである。

1135年、ブーリー朝の君主イスマーイールが自分への暗殺計画を知って疑心暗鬼になり、ザンギーに町を引き渡そうとした。ダマスカスの市民はザンギーの不誠実さを知っていたため、これを阻もうとして、イスマーイールの母ズムッルドに訴えた。ズムッルドはイスマーイールを殺し、別の息子マフムードを立ててザンギーの来訪に備えた。ザンギーはダマスカスを包囲したが、街は守りを固めた。このとき防戦の指揮を執ったのがウヌルである。アッバース朝のカリフ、ムスタルシドが仲介に入り、ザンギーは退いた。1137年、ウヌルはマフムードからアタベクの称号を受け、総司令官の職に任じられた。1138年以来、友人のアラブ騎士で文人のウサーマ・イブン・ムンキズを通じて、エルサレム王フルク1世との同盟の可能性を探っていた。

1139年、マフムードがマムルークに殺され、跡を継いだムハンマドから政務を任されたウヌルは、防備を固めた。好機と見たザンギーはふたたび進軍し、莫大な見返りと引き換えにダマスカスの引き渡しを求めたが、ウヌルは拒んだ。ザンギーはダマスカス領のバールベクを攻め取り、その残虐な振る舞いによってダマスカスの反発はいっそう強まった。ウヌルは耐え抜き、エルサレム王国に救援を求めてザンギーを退却させた。1140年、ザンギーの攻撃をきっかけに、エルサレム王国との同盟が正式に発足した。両軍は新たな危険のさいに統合し、ウヌルは戦費として2万ディナールを支払い、エルサレム軍の支援を受けてバニヤースを奪い、エルサレム王に引き渡すという条件だった。ウヌルは条件どおりバニヤースを占領してフルクに渡し、ウサーマを伴ってエルサレム王国を訪れた。

1146年にザンギーが暗殺され、次男のヌールッディーン・マフムードがアレッポを継いだ。ヌールッディーンはダマスカスへ歩み寄る姿勢を見せ、ウヌルは自分の娘アーミナをヌールッディーンに嫁がせて婚姻による同盟を結んだ。1148年には、ザンギーによる1144年のエデッサ征服を受けて西欧から来たローマ王コンラート3世、フランス王ルイ7世らの十字軍が、エルサレム王ボードゥアン3世も交えた協議で、ダマスカス攻撃を決めた。エルサレム王国との同盟があったため合意違反となるが、ウヌルはヌールッディーンと、その兄でモスルのサイフッディーン・ガーズィーに救援を求め、エルサレム王国との伝手を使って十字軍の分断もはかった。ウスマーンの「血染めのクルアーン」を持ち出して士気を鼓舞したこともあり、戦いはわずか4日で十字軍の敗北に終わった。

1149年6月には、ヌールッディーンとの同盟に基づいて、アンティオキア公国との戦いに援軍を出した(イナブの戦い)。その2か月後、ウヌルは食事のあとに倒れ、赤痢だったという。8月28日に没し、ダマスカス宮殿のイーワーンに葬られたが、のちに自らが建てさせたマドラサに移された。イブン・アル=アシールは「ウヌルは善良で賢明な男で、卓越した指揮能力を持っていた」と述べている。

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