伝記
フゴロナフォルは、紀元前205年に、プトレマイオス4世フィロパトルの支配からの上エジプトの分離を主導したエジプト人である。ホルウェンネフェル、ハルガノフォル、ハロンノフリスなどとも呼ばれ、ギリシア名ではヒュルゴナフォルと記される。ホルス・オンノフリスを意味する名で知られ、生没年は不明である。出身については、ヌビア系とみる見方がある一方、デモティック(民衆文字)の史料は、彼も後継者のアンクウェンネフェルも土着のエジプト人であったと強調しているとされ、この運動がいかに民族的な意識に支えられていたかを示すと論じる研究者もいる。いずれにせよ、二人の反乱の王はテーベとの強い結びつきを強調した。
経歴には異説がある。紀元前217年のラフィアの戦いにプトレマイオス4世の軍の一員として加わり、エジプト軍の勝利に貢献したのち、上エジプトに戻って反乱を率いたと伝えられる。また、テーベの有力者で、メンフィスのプタハの大司祭だったともいわれる。彼の名を記した最古の文書は、紀元前206年11月のものとされ、カルナックで見つかった石灰岩片に書かれている。
後継者アンクウェンネフェル(アンクマキス、カオンノフリスとも)とともに、彼らはエジプトの大部分を紀元前186年まで掌握した。ホルウェンネフェルの治世の第1年と記したデモティックの文書も残っており、そこでは「イシスに愛され、アモン・ラー・ソンテルに愛された王」と呼ばれている。この王に帰される記念建造物は確認されていない。
その影響力の広がりと統治理念を示す数少ない証拠が、紀元前201年ごろにアビュドスのセティ1世の葬祭神殿の壁に記された落書きである。そこでは彼はギリシア名で呼ばれている。この落書きはギリシア文字を用いてエジプト語で書かれ、のちにデモティックに代わってコプト文字が用いられるようになる流れの、最古の証しとされる。
死の時期は、紀元前197年より前と推定されるが、紀元前199年に死んだとする説もある。紀元前199年説では、彼の後をアンクウェンネフェルが継いだとされる。一方で、ホルウェンネフェルが紀元前199年に改名してアンクウェンネフェルになったにすぎず、二つの名は同一人物のものだとみる歴史家もいる。テーバイスは紀元前191年から190年にかけて独立を失ったとされ、メロエの軍の援助があったものの敗れたという。上エジプトの再征服後、プトレマイオス朝は二人の痕跡を消し去ったともされるが、ロゼッタ石にはエジプト人の反乱への言及が見られる。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・フルウィウス・フラックス (紀元前 200年(推定))
- ガイウス・ポピッリウス・ラエナス (紀元前 200年(推定))
- ゲンティウスは (紀元前200)
- プブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムス (紀元前 200年(推定))
- グナエウス・ナエウィウス (紀元前 200年)
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