伝記
レーシャ・ウクライーンカは、1871年2月25日、ロシア帝国ヴォルィーニ県(現ウクライナ・ジトーミル州)で生まれた詩人・作家・劇作家・翻訳者である。本名はラルィーサ・ペトリウナ・コサッチで、「ウクライナの女性」を意味する筆名で知られる。父ペトロ・コサッチは法学者で、ウクライナ文化の振興に力を尽くした地元の名士だった。母オレーナ・プチールカは詩人・児童文学作家で、女性解放運動の活動家だった。叔父はのちに精神的指導者となる著名な歴史家・民俗学者である。コサッチ家ではウクライナ語だけが使われ、子供たちはロシア語教育の学校を避け、ウクライナ人の家庭教師から教わった。4歳で読み書きを習得し、兄ムィハーイロとともに外国語の原書を読めるほど語学に優れていた。多くの言語を流暢に操り、ハイネやゴーゴリの作品を翻訳した。叔母オレーナが政治活動で逮捕、流刑となったことに衝撃を受け、幼くして初めての詩「希望」を書いた。1879年に一家は近隣のコロジャージュネ村に家を建て、叔父の勧めでウクライナの民謡、民話、聖書を学び、ルィセンコらの文化人の影響も受けた。
13歳の1884年、リヴィウの雑誌『ゾリャ』に詩「鈴蘭」と「サッポー」を発表した。このとき初めて筆名を使ったが、これは母の提案で、ロシア帝国によるウクライナ語出版の禁止を避けるためだった。1885年に兄と共同でゴーゴリの翻訳を出し、1890年にはイヴァン・フランコの協力で『東洋民族の古代史』を出版した。1893年に初の詩集『歌の翼の上に』を出し、続いて1899年に『思いと夢』、1902年に『反響』を刊行した。これらの詩集は、ウクライナの自然、愛国心、個人の孤独を主題とし、シェフチェンコやフランコの影響を受けている。1890年の詩は、逆境に立ち向かう勇気を歌った代表作の一つである。
1890年代後半から劇作に力を注いだ。初の戯曲『青い薔薇』(1896年)は知識階級の生活を描き、農民中心だった従来のウクライナ演劇に新しい視点をもたらした。『カッサンドラ』『地下墓地にて』や歴史劇『貴族婦人』など、歴史や神話を題材にした心理劇が多い。最高傑作とされる『森の歌』(1911年)は、ウクライナの多神教神話に基づく詩劇で、人間の男性と神界の女性の愛を描く。バレエやオペラ、アニメにも翻案された。キエフの文学芸術協会などに参加し、ウクライナ文学の振興と外国文学の翻訳を進め、女性解放と民族解放を強く支持した。1907年にはツァーリの警察に一時逮捕されたこともある。マルクス主義にも共感し、1901年には『共産党宣言』のウクライナ語訳の提供に関わった。
幼いころから骨の結核に悩まされ、治療のためクリミア、グルジア、イタリア、エジプトなどをたびたび訪れた。ピアニストを目指したが、病のため断念した。1897年、ヤルタで結核の治療中に出会った男性と恋に落ち、1901年にその死を知ると、一晩で戯曲『憑依』を書き上げたという。1907年に民俗学者と結婚し、クリミアに続いてグルジアに移った。1913年8月1日、グルジアの療養地で結核のため42歳で亡くなり、キエフに埋葬された。死去に際し、イヴァン・フランコは「ウクライナ文学の巨星が落ちた」と悼んだという。ウクライナの国民的詩人として讃えられ、各地に記念碑や博物館があり、200フリヴニャ紙幣に肖像が採用された。
同じ年に亡くなった人物
- 岡倉天心 (1913年没)
- ハンス・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ (1913年没)
- 徳川慶喜 (1913年没)
- アントニア・マリア・フォン・ポルトゥガル (1913年没)
- ジャーシム・ビン・ムハンマド・アール=サーニー (1913年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァフタング3世 (1308年没)
- ショータ・チョチョシビリ (2009年没)
- ダヴィド8世 (1311年没)