伝記
アリアラテス4世(エウセベス、「敬虔なる者」)は、紀元前220年から163年までカッパドキアを治めた王である。父は先王アリアラテス3世、母はマケドニア系ギリシア人のストラトニケで、幼いうちに王位を継ぎ、在位は約57年に及んだ。
カッパドキアは、ペルシアの七人の一人アナファスの時代から一族のサトラップ領であったという。のちアリアラテス1世がペルディッカスに敗れ、子のアリアラテス2世はアルメニアに退いたが、ペルディッカスとカルディアのエウメネスの死後に戻った。その子アリアメネスが、さらにその子アリアラテス3世へとつなぎ、アリアメネスはセレウコス朝のアンティオコス2世テオスと同盟して、アリアラテス3世をアンティオコスの娘ストラトニケと結婚させた。アリアラテス3世はカッパドキアのセレウコス朝からの独立を宣言していたが、アリアラテス4世はセレウコス朝と再び接近した。いとこにあたるアンティオキスと結婚したのである。アンティオキスはアンティオコス3世大王と王妃ラオディケ3世の娘であった。この縁組によって、王は義父がローマと戦った際にこれを支援した。
紀元前190年のマグネシアの戦いでアンティオコスがローマに敗れたのち、王は紀元前188年に和平を求めた。ローマ軍の司令官であった執政官格の総督グナエウス・マンリウス・ウルソに300タレントを贈ったともいわれ、有利な条件で和平を得て、ローマの「友」として認められたが、実質的にはローマに従う立場となった。そのころ王の娘ストラトニケが、ローマの同盟者であるペルガモン王エウメネス2世と婚約し、のちに結婚した。この縁組には、王が負担すべき額が600タレントから300タレントに減らされたことも結びついていたとされ、エウメネスがその軽減を取りつけたともいう。以後ローマの東方政策に協力する同盟者となった。紀元前183年から179年にかけては、エウメネスがポントス王ファルナケスと戦った際にこれを助けた。紀元前182年から181年には王の使節がローマで迎えられ、紛争の解決が図られた。紀元前164年にセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスが死ぬと、ローマは王の忠誠を確かめるために使節を送ったと、ポリュビオスが記している。
王妃アンティオキスには、はじめ子ができなかったという。そこで二人の子を自分の子として差し出し、アリアラテスとオロフェルネスと名づけた。ところが後に、娘二人と、ミトリダテスと名づけられた息子を産んだとも伝えられ、王妃は先の偽りを王に打ち明けた。このミトリダテスがのちのアリアラテス5世である。偽りの二人は王によってカッパドキアから送り出され、年長の者はローマへ、もう一人はイオニアへ向かった。ローマ風に育てさせるためだったともいわれる。この逸話は、17世紀のクロード・ボワイエの悲劇『ティリダート』の題材にもなった。王は子ミトリダテスを後継者に指名し、まもなく没して、アリアラテス5世があとを継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- Orophernes of Cappadocia (紀元前200)
- セクストゥス・アエリウス・パエトゥス・カトゥス (紀元前 200年(推定))
- マルクス・ポピッリウス・ラエナス (紀元前173年の執政官) (紀元前 200年(推定))
- Pantaleon (紀元前200)
- Agathocles of Bactria (紀元前200)
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