伝記
ロバート・ファルコン・スコットは、1868年6月6日、醸造業を営むジョン・エドワード・スコットの長男として生まれたイギリスの海軍軍人、探検家である。武人の家系で、13歳で海軍兵学校に入学し、15歳で士官候補生となった。1888年に海軍大学を卒業している。1899年、少佐だったスコットは、王立地理学協会による南極探検計画を知り、隊長として参加することを熱望した。翌年に中佐に昇進し、その任にあたった。
1901年から1904年にかけて、第1回南極探検、すなわちディスカバリー号の探検が行われた。この際に彼は、アーネスト・シャクルトンらとともに南極点への到達を目指し、残り733キロの地点まで迫った。ペンギンの生態観察なども行い、南極に関する多くの科学的知見を得て、高い評価を受け、帰国と同時に大佐に昇進した。1904年には王立地理学会から金メダルを贈られた。1908年に彫刻家のキャサリン・ブルースと結婚し、1909年9月に自らの南極探検計画を発表した。同年12月には予備役に転じて資金調達に奔走した。前回は国家的プロジェクトだったが、この探検は立案から、スコット個人によるところが大きかった。
1910年6月1日、スコットはテラ・ノヴァ号で第2回南極探検に出発した。8000名の希望者から選ばれた33名の上陸隊員が参加し、南極の科学的探査を行うとともに、世界初の南極点到達を目標とした。同じ年、ロアール・アムンセン率いるノルウェー隊は、北極点到達がアメリカのピアリーによって達成されたことを知り、目標を南極に変更していた。ニュージーランドで、ノルウェーのアムンセン隊も南極点到達を目指すことを知った。両隊は1911年1月に南極大陸に上陸し、翌夏の極点到達を目指して、前進基地の建設などの準備を進めた。1911年10月、マクマード湾での越冬を終えたスコット隊は南極点に向けて出発した。しかし、10月19日には、より極点に近いクジラ湾からアムンセンの犬ぞり隊が出発していた。
スコット隊が投入した雪上車2台は、エンジン付きのそりのようなもので、1週間足らずで両方とも故障し、修復できなくなった。主力の馬も次々に失われ、12月2日には、食料節約のため最後の1頭も射殺せざるを得なくなり、ついには人力でそりを曳くことになった。1912年1月4日、南緯87度32分でグループは分かれ、最終的に極点を目指すのは、スコット、ウィルソン、バウアーズ、オーツ、エドガー・エヴァンズの5人となった。1月17日、一行はついに南極点に到達したが、アムンセン隊が着いてから約1か月が経ち、ノルウェーの国旗が立てられていた。映画ではこのことが極点で初めて分かったように描かれがちだが、実際は、遅くとも1月16日には、先を越されたことをほぼ確実と認識していた。
失望のなかの帰途、全員が3月29日までに亡くなった。2月16日にエヴァンズが衰弱と凍傷で最初に死亡した。それでも、ウィルソンを中心に標本の採集は続けられた。2月から3月としては例外的な荒天が続き、前年にデポに貯蔵した燃油も、缶の損傷で著しく欠乏していた。続いて、足に重い凍傷を負ったオーツは自分を見捨てるよう嘆願し、3月17日の朝に「ちょっと外へ出てくる」という言葉を残してブリザードの中へ消えた。32歳の誕生日だった。3月21日、食料を置いたデポまであと20キロのところで猛吹雪に見舞われ、10日間テントに閉じ込められた。食料は2日分しかなかった。スコットは3月29日まで日記を書いた。遺体は同年に救援隊に確認された。
同じ年に亡くなった人物
- トマス・アンシュッツ (1912年没)
- ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ (1912年没)
- ソフィア・ジェクス=ブレーク (1912年没)
- アルマウェル・ハンセン (1912年没)
- 明治天皇 (1912年没)
同じ地域に関係する人物
- ポール・マリナー (2021年没)
- フランシス・チチェスター (1972年没)
- ロバート・ブレイク (1657年没)
- マーティン・フロビッシャー (1594年没)
- ウィリアム・ハウ (1814年没)