HISTORICAL PERSON · 1137年没

ルイ6世 (フランス王)

カペー朝第5代のフランス王で、肥満王・戦士王と呼ばれた。1108年に急遽オルレアンで戴冠して継母ベルトラードの野望を潰し、親友シュジェールを顧問に重用して、諸侯の反乱に苦しみつつ王権の防衛に努めた。

生涯
1137年没
死亡地
フランス共和国(オワーズ県 / Chateau de la Douye)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(オワーズ県)

伝記

ルイ6世は、1081年12月1日に生まれ、1137年8月1日に没したフランス・カペー朝の第5代国王である。在位は1108年から1137年。第4代国王フィリップ1世と最初の王妃ベルトの長男で、肥満王や戦士王と呼ばれた。4人の息子のうち、聖職者になった三男シャルルを除いて成人したのはルイだけであった。

父王は1092年にベルトと離婚し、有夫の身であったベルトラード・ド・モンフォールと再婚したため、教皇ウルバヌス2世と対立して破門され、権威を失った。ルイは10歳ほどで父からヴェクサン、マント、ポントワーズの統治を任され、イングランド王ウィリアム2世の攻撃から守る立場に置かれた。宮廷に居場所がなく、ポントワーズで毛布も与えられずマントにくるまって眠ったと伝えられる。幼少期にはサン=ドニ修道院付属の学校で過ごし、のちに生涯の友となるシュジェールと出会った。12歳前後で王宮に戻ったが、継母ベルトラードは自分の子らを可愛がり、ルイを冷遇した。1098年に騎士の称号を授けられ、1100年に病床の父から王太子に指名されると、継母は3人の修道士に王太子の暗殺を依頼したと伝えられる。陰謀は発覚したものの、1101年の毒殺未遂では毒に倒れ、ユダヤ人医師の治療で一命を取り止めた。1104年にはモンレリ家に連なるリュシエンヌと結婚して継母派に対抗し、継弟フィリップにマント伯領を贈って継母とも公に和解した。

1108年に父が没すると、ルイはオルレアンで急遽戴冠した。伝統的な聖別の地ランスの大司教職をめぐって混乱があり、継弟とブロワ伯ティボー4世の支配下で安全も確保できなかったためである。戴冠式には王家の重臣がほとんど出席せず、当時の王権の衰えを物語る。王の直轄領はオルレアン、パリ、サンリスを中心とするイル・ド・フランスに限られ、周囲にはノルマンディー、フランドル、シャンパーニュ、アンジュー、ブルターニュ、アキテーヌなどの強力な諸侯領が並んでいた。道路の多くは強盗騎士のように振る舞う城主が押さえていた。

ルイは、王宮に強い影響力を持っていたモンレリ家の勢力を削ぐことに取り組んだ。リュシエンヌとの間に子がなく、血縁を理由に婚姻の無効を訴え、トロワ公会議で認められて離婚した。1108年にはグルネー城を包囲して占領し、1109年にラ・ロッシュ=ギュイヨン城を奪い、1111年にはル・ピュイゼ城を破壊して領主ユーグ3世を捕らえた。その後もコルベイユの継承をめぐってブロワ家と争うなど戦いは続いたが、1114年にギー2世とユーグ・ド・クレシー父子をグルネー城に幽閉して服従させ、モンレリ家は滅んだ。その所領は王領に加えられ、一部は忠臣や諸家に分け与えられた。ユーグ・ド・クレシーはクリュニー修道院に入った。1118年にはユーグ3世が再び反乱を起こしたが降伏し、のちにパレスチナで亡くなったとされる。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の侵攻を受けた際には、シュジェールが聖ドニの軍旗オリフラムを掲げて諸侯を集め、撃退に成功した。ルイは2番目の妻アデル・ド・サヴォワとの間の次男ルイ7世を、長男フィリップの早世後の1131年から共同王位につけていた。1137年、そのルイ7世とアキテーヌ公領の相続人エレアノールとの婚姻を決めた後、赤痢に感染してベティシー=サン=ピエールで没した。その治世は、形だけの王家に近かったカペー朝が実質的な影響力を持ち始める転機となり、孫のフィリップ2世の代の王権拡大につながった。

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