HISTORICAL PERSON · 1911年没

ヴァレンティン・セローフ

ロシアの画家で、当時の主要な肖像画家の一人。『桃を持った少女』『陽光を浴びる少女』が初期の最高傑作とされる。

生涯
1911年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ヴァレンティン・アレクサンドロヴィチ・セローフは、1865年1月19日にサンクトペテルブルクで生まれ、1911年12月5日にモスクワで没したロシアの画家で、この時代の主要な肖像画家の一人である。ロシアの作曲家アレクサンドル・セローフと、ドイツ系ユダヤ人の作曲家で妻のヴァレンチナ・セミョノーヴナ・セーロヴァの息子として生まれた。少年時代にパリやモスクワでイリヤ・レーピンのもとで学び、帝国美術アカデミー(1880年から1885年まで)でパヴェル・チスチャコフに学んだ。初期の創造性は、レーピンの写実主義と、チスチャコフの厳格な教育方式に端を発している。ミハイル・ヴルーベリや、のちにコンスタンチン・コローヴィンとの親交、アブラムツェヴォの創造的な雰囲気からも影響を受けた。

トレチャコフ美術館に所蔵されている『桃を持った少女』(1887年)と『陽光を浴びる少女』(1888年)は初期の最高傑作で、自然やモデルの無理のない自然さに焦点を絞り、光や色彩を生き生きと表している。これらは初期ロシア印象派の特徴を示している。1890年以降は、肖像がセローフの基本的なジャンルとなった。鋭く心理的な要点をついた絵が初期の様式の中心であり、お気に入りのモデルは、俳優、芸術家、作家などだった。コローヴィン(1891年)、レヴィタン(1893年)、レスコフ(1894年)、リムスキー=コルサコフ(1898年)の肖像がある。1894年に移動展覧会協会に参加し、大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチ(1897年)、ユスポヴァ(1903年)らの重要な注文を受けて、肖像画を描いた。威厳ある態度や、装飾的に一貫した色の組み合わせの肖像画を描く一方、主に子供や女性の、親しみやすい室内肖像画も頻繁に描き、子供の誠実な純粋さと内面の動きを自然なポーズで表現した。水彩、パステル、リトグラフなど様々な技法も用い、晩年には肖像画の形象が洗練されたグラフィックになった。1887年にオリガ・トルゥフニコバと結婚し、妻と子供は作品の多くでモデルとなった。『子供たち』の絵は、息子のユーラとサーシャであった。

1900年代の初めには、巡回運動に不満を抱くようになり、美術雑誌『芸術世界』の団体のメンバーとなった。20世紀の初めには様式の転換点にあり、印象派的な特徴は消えてモダニズム的様式を展開したが、主題への誠実さと現実的な包容力は変わらなかった。ゴーリキー(1904年)、イェルモロワ(1905年)、シャリアピン(1905年)の肖像が知られる。民主的な信念は、1905年から1907年の革命の際に明確に示され、風刺的な絵も描いた。1903年から帝国美術アカデミーの正会員であったが、1905年1月9日の血の日曜日に抗議して辞任した。晩年には歴史画でも創造性を発揮し、ピョートル1世(1907年)を描いた。生涯最後の年には古典的神話の主題が目立つ。1897年から1909年までモスクワ美術学校で教え、教え子には、パーヴェル・クズネツォフ、マルティロス・サリアン、クジマ・ペトロフ=ヴォートキンらがいる。ノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。

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