伝記
ウィリアム・ホルマン・ハントは、1827年4月2日にロンドンの商業地区チープサイドで生まれ、1910年9月7日に没したイギリスの画家で、ラファエル前派の創設者の一人である。細部への注意、鮮やかな色彩、精緻な象徴で知られ、これらはラスキンやカーライルの著作の影響を受けたものだった。二人によれば、世界そのものが視覚的な記号の体系として読まれるべきものであり、ハントにとって、記号と事実の対応を明らかにするのは芸術家の務めだった。倉庫の管理者ウィリアム・ハントと妻サラの子として生まれ、裕福な母方の家が、不釣り合いな結婚とみなしたとされる。洗礼のとき書記が綴りを誤った「ホルマン」を、のちに自分の名として用いた。
はじめ商業の仕事に就いたが、絵を学び、商業美術の仕事をしたのち、1843年にロンドンのロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学した。一度は入学を断られたといい、のちに創設者レノルズの影響に反発した。1848年、詩人で画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと出会い、学友のジョン・エヴァレット・ミレーとともに、「ラファエル前派」を結成した。「ラファエロ以前」という言葉には、19世紀当時のアカデミーの古典偏重の美術教育に異を唱える意味があり、思想の面で影響を与えたのは、美術批評家のジョン・ラスキンだった。ラスキンの考えは、自然をありのままに再現すべきだというもので、その根幹には、神の創造物である自然に完全さを見出す信仰があった。ただし明確な理論をもった運動ではなく、1853年にミレーがロイヤル・アカデミーの準会員になったことなどをきっかけに、数年後にはグループは解散した。
ミレーとロセッティが次第に方向を変えていく中、ラファエル前派の特色を最後まで保ったのがハントだった。その特色とは、聖書や伝説に主題を求めることと、画面のすみずみまで徹底的に描き込む細密描写であり、ラスキンの「自然の忠実な再現」を最も忠実に実行した画家といえる。作品は当初は成功せず、美術雑誌では不器用で醜いと攻撃されたが、現代の生活を自然主義的に描いた作品で早くから注目された。名声を得たのは宗教画によってである。『世の光』(1851年から1853年)は、オックスフォードのキーブル・カレッジの礼拝堂にあり、後年(1900年)の版は世界を巡回して、ロンドンのセント・ポール大聖堂にある。聖書の物語を描くには、物語の起きた現場を見なければならないと考え、1850年代半ばにはパレスチナを訪れ、地理や民族の資料を探した。そこで『身代わりの山羊』『神殿で見つかった救世主』『死の影』などを描いた。のちにエルサレムに自分の家も建てた。パレスチナへは3度渡っている。
私生活では、モデルのアニー・ミラーとの婚約が破れたあと、1861年にファニー・ウォーと結婚した。彼女は『イザベラ』の人物のモデルになったが、1866年末にイタリアで出産のため亡くなった。ハントは彼女の墓を彫刻し、フィレンツェの英国人墓地に運んだ。2番目の妻は、ファニーの末の妹エディスで、亡き妻の姉妹との結婚は当時のイギリスでは違法だったため、1875年11月にスイスのヌーシャテルで結婚した。このことは家族との深刻な対立を生み、とくにファニーに恋していたこともある旧友の彫刻家トマス・ウールナーとは仲が悪くなった。のちに視力が衰えて、望む質を保てなくなり、絵筆を置いた。最後の大作は助手ヒューズの助けを得て完成し、没後はセント・ポール大聖堂に葬られた。1905年に自伝を出し、この年エドワード7世からメリット勲章を授けられた。
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