伝記
ジャン=アンリ・デュナンは、1828年5月8日にジュネーヴの名の知れた旧家に長男として生まれた、スイスの実業家で、赤十字社の創設者である。厳格なカルヴァン派の伝統のなかで育てられた。父ジャン=ジャックは政治・経済界の名士で、福祉孤児院の所長などを務め、母アンヌ・アントワネットは名門コラドン家の出身で、福祉活動に熱心だった。1838年に名門校のカルヴァン学校に入ったが、学業不振で退学し、家庭教師の補習で教養を身につけ、慈善団体のメンバーとして働くようになった。十八歳のときに宗教復興運動の流れのなかでジュネーヴ霊魂協会に加わり、翌年には友人らと聖書の勉強と貧者の援助のための「木曜会」を作り、牢獄の訪問などに余暇の多くを費やした。
1849年、二年間の見習いを終えて銀行の正社員となった。熱心に働くかたわら、キリスト教活動にも尽くし、西ヨーロッパ諸国の若い福音運動家と交流した。ロンドンで創設されたキリスト教青年会を国際的な組織にすることを提唱し、1852年にジュネーヴ青年会を設立し、1855年にはパリで世界同盟の結成に加わり、規約を起草した。1853年にアルジェリアなどへ出張を命じられ、差別と迫害と貧困に苦しむ現地のアラブ人やベルベル人に衝撃を受けた。1854年に銀行を退職し、1858年にアルジェリアで現地の人々を助けるための農場と製粉会社の事業を始めたが、水利権の許可が下りず、事業は行き詰まって借金が嵩んだ。
1859年、事業支援の請願のため、イタリア統一戦争でオーストリアと戦うナポレオン3世に会いに行き、北イタリアのソルフェリーノの戦いに遭遇した。この戦いは両軍合わせて二十万を超える軍隊が衝突し、四万人近い死傷者が出る激戦だった。戦場に放置された死傷者を見たデュナンは、救援する地元の女性たちの群れに加わり、一週間滞在した。なぜ敵味方の区別なく救うのかと尋ねられ、「人類はみな兄弟」と答えたのは有名である。1862年にその体験を書いた『ソルフェリーノの思い出』を出版し、これが、戦場で敵味方の区別なく負傷者を救護することを目的とする赤十字創設の契機となった。1863年にジュネーヴで国際負傷軍人救護常置委員会が結成されて委員に選ばれ、国際会議の召集に奔走し、十六か国が参加した最初の国際会議で赤十字規約を採決して、各国に戦時救護団体が組織されるに至った。
しかしデュナンの人生は転落していく。理事を務めたジュネーヴ信託銀行が1865年に倒産したのをきっかけに、アルジェリアでの事業が決定的な打撃を受け、株主らから訴えられて、委員会から辞職を求められた。1867年に故郷を去って生涯戻らず、破産宣告を受け、約二十年消息を絶った。パリやロンドンなどで姿を見かけられても、駅舎で寝泊まりするような浮浪者同然の生活だった。1876年にシュトゥットガルトの避難所に現れ、牧師が屋根裏部屋を貸したことで下宿生活が始まった。1887年にスイス東北部のハイデンに現れ、1892年から死去まで、病院長の世話で公立病院の一室に住み、自叙伝などを書いた。1895年に新聞の編集者が訪ねて記事が掲載され、功績が再び脚光を浴び、ミューラー教授の推薦により、1901年に第1回ノーベル平和賞を受賞した。1910年10月30日、八十二歳で静かに世を去り、ほとんど手付かずだった賞金は、遺言でスイスとノルウェーの赤十字社に寄付された。誕生日の5月8日は「世界赤十字デー」となっている。
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