HISTORICAL PERSON · 1910年没

ウィリアム・ジェームズ

アメリカの哲学者・心理学者。意識の流れの理論を提唱し、パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表。1875年にアメリカ初の心理学の講義を始めて研究室を設け、西田幾多郎や夏目漱石にも影響を与えた。

生涯
1910年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューハンプシャー州 / タムワース)
出生地
アメリカ合衆国(アスター・ハウス)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューハンプシャー州)

伝記

ウィリアム・ジェームズは、1842年1月11日にニューヨークで生まれ、1910年8月26日に没したアメリカの哲学者、心理学者である。パースやデューイと並ぶプラグマティズムの代表として知られ、意識の流れの理論を提唱して、ジェイムズ・ジョイスやアメリカ文学にも影響を与えた。弟は小説家のヘンリー・ジェームズである。神学者ヘンリー・ジェームズ・シニアの長男で、父はエマーソンと親交があり、エマーソンが彼の代父となった。父は子供たちが自由闊達な精神を持つことを願い、この方針で教育と家庭生活を設計して、三度も家族を連れて大西洋を渡りヨーロッパを旅した。ジェームズはドイツ語とフランス語に堪能になり、七歳から三年間小学校に通ったのを除いて、大学までは学校教育を受けていない。

1860年にアメリカに帰国し、画家を志して、ニューポートのウィリアム・モリス・ハントに入門したが、半年で才能がないと自覚して断念した。1861年に南北戦争が始まると、奴隷制度に批判的でありながら北軍への参加をためらい、迷っているうちに戦争が終わって、そのことが深い苦悩をもたらした。同年、十九歳でハーバード大学の理学部に入り、化学から生理学に移って、医学大学院に転じた。1865年には博物学者アガシーのブラジル探検に参加したが、重度の船酔いと軽い天然痘に苦しみ、八か月で旅行を中止した。この体験で採取や分類に向かないと知り、かえって思索家としての素質に気づいて、哲学を研究しようと思った。1866年秋に生理学の勉強と療養のためドイツへ行き、不眠や背中の痛み、憂鬱に悩まされた。ヘルムホルツやヴントの業績に触れ、心理学が一つの科学になりつつあると感じた。1868年11月に帰国し、1869年に医学の学位を取った。

1869年から72年の病弱と憂鬱症の時期が、心理学と哲学への関心を決定的にした。1870年4月30日の日記では、ルヌーヴィエの自由意志説に光明を得て、「私の最初の自由意志の行為は、自由意志を信ずることであるであろう」と記した。1872年、ハーバード大学総長エリオットから生理学の講師に任命され、教壇に立つことで憂鬱症から解放されたという。1875年には生理学と心理学の関係についての講義を始め、アメリカで初めて心理学の実験所を設立した。1878年にはスタンレー・ホールにアメリカで最初の心理学の博士号を授与した。1880年には哲学の助教授、1885年に教授になり、ミードも彼の講義を受けたひとりである。

1890年に記念碑的な研究書『心理学原理』を刊行した。依頼を受けたのは1878年だったが、想定以上の膨大な量を書いたため長引いた。そこで示した意識の特徴が「意識の流れ」で、意識を要素に分けず、まとまりのある全体としてとらえた。また、「泣くから悲しい」「逃げるから恐い」のであって、その逆でないとするジェームズ・ランゲ説でも知られる。1892年には教科書用の短縮版を出し、1897年には講義録『信ずる意志』を刊行した。1898年のカリフォルニア大学の講演では、当時無名だったパースが提唱したプラグマティズムを絶賛して紹介した。1902年には『宗教的経験の諸相』を刊行した。ジェームズにとって宗教は人間の本性に根ざした根本的な経験の事実であり、この著作は宗教心理学のみならず臨床心理学の古典となった。1907年に『プラグマティズム』を刊行して、アメリカを代表する哲学者になった。1910年に心臓病で死去し、遺作として『哲学の諸問題』(1911年)や『根本的経験主義』(1912年)が刊行された。

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