伝記
ハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホは、1843年12月11日、ドイツのクラウスタールで生まれた医師、細菌学者である。ルイ・パスツールとともに近代細菌学の開祖とされ、炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者として知られる。父ヘルマンは鉱山技師で、母はマティルデ・ユーリエ・ヘンリエッテ・ビーヴェントといい、十三人きょうだいの三番目だった。幼いころから成績が優れ、1848年に学校へ入る前に読み書きを独学で覚えた。1862年に中等教育を終え、科学と数学で抜きん出た成績を収めた。同年、十九歳でゲッティンゲン大学に入り、数学、物理学、植物学を修め、大学の病理学博物館の助手に任じられた。三学期ののち、医師を志して医学に転じた。
医学部の五学期目には、1840年に伝染説を発表した解剖学者ヤーコプ・ヘンレに、子宮の神経構造の研究への参加を求められた。この研究で大学の研究賞を受け、ルドルフ・フィルヒョウのもとでも短期間学んだ。六学期目には生理学研究所で琥珀酸の分泌を研究し、これがのちに学位論文の基礎となった。1866年1月に最優等で医学部を卒業した。ハンブルクの総合病院の助手を経て、同年10月からハノーファー近郊の精神病院で若手医師を務め、1868年にナイメク、1869年にラコヴィッツへ移った。普仏戦争が始まった1871年に志願軍医として軍に加わり、一年後に除隊して、プロイセン領ポーゼンのヴォルシュタインで郡医に任命された。そこで妻から誕生日に贈られた顕微鏡で私設の研究室をつくり、微生物学の研究を始めた。
患者の診察室につながる研究室で、細菌を培養する技術を開発し、選んだ病原体を純粋培養で分離して育てることに成功した。炭疽菌の発見は、ブレスラウ大学の教授コーンを大いに感心させ、コーンの助力で1876年に発表された。この年に炭疽菌の純粋培養に成功し、細菌が動物の病原体であることを証明して、その指針となるコッホの原則を提唱した。油浸レンズやコンデンサー、顕微鏡写真を初めて顕微鏡観察に用い、寒天とガラス板を使う培養法を考案して、これは助手のペトリによってペトリ皿に発展した。1880年に帝国衛生局の政府顧問となり、1882年に上級職に昇り、1885年にベルリン大学の衛生学研究所長と教授になり、1891年に王立プロイセン感染症研究所の所長となった。
1882年3月24日、結核菌を発見した。炭疽菌と同様に病原性を証明して、論文『結核の病因論』を著し、人間でも細菌が病原体であることを示した。この日は世界結核デーとされる。1883年にはインドでコレラ菌を発見した。1890年に結核菌の培養上清からツベルクリンをつくり、治療に使うつもりだったが、効果がなく大きな論争を招いた。現在では診断にのみ用いられている。1893年に妻エミーと離婚し、三十歳年下のヘドヴィヒ・フライブルクと結婚した。1897年には王立協会の外国人会員となり、1905年に結核に関する研究でノーベル生理学・医学賞を受けた。弟子には、腸チフス菌を発見したガフキー、血清療法で1901年にノーベル賞を受けたベーリング、1908年に受賞したエールリヒ、破傷風菌の純粋培養に成功した北里柴三郎らがいる。1908年には北里に招かれて来日した。1910年5月27日、ドイツ南西部のバーデン=バーデンで六十六歳で逝去した。ベルリンには彼の名を冠したロベルト・コッホ研究所がある。
同じ年に亡くなった人物
- グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン (1910年没)
- アレキザンダー・アガシー (1910年没)
- アンドリュー・ジャクソン・デイヴィス (1910年没)
- ジュリア・ウォード・ハウ (1910年没)
- メルヒオール・トロープ (1910年没)
同じ地域に関係する人物
- クリスチャン・マイヤー (1783年没)
- フリッツ・マウトナー (1923年没)
- カール (バーデン大公) (1818年没)
- Vugar Hashimov (2014年没)
- ヤーコプ3世 (バーデン=ハッハベルク辺境伯) (1590年没)