HISTORICAL PERSON · 1909年没

ジョン・ミリントン・シング

アイルランドの劇作家・詩人。アイルランド文学復興運動とアベイ座設立に関わり、風刺の精神を貫いた独自の文体でアングロ・アイリッシュ文学を築いた。

生涯
1909年没
死亡地
アイルランド(ダブリン県 / ダブリン)
出生地
アイルランド(ラスファーナム)
出典
世界地図
アイルランド(ダブリン県)

伝記

ジョン・ミリントン・シングは、1871年4月16日に、ダブリン県ラスファーナムで、8人きょうだいの末子として生まれたアイルランドの劇作家、詩人、民俗文化の研究者である。アイルランド文学復興運動の中心人物の一人で、アベイ座の共同創設者として知られる。上流の中産階級に属するプロテスタントの家に生まれ、父ジョン・ハッチ・シングは、ウィックロー県の地主階級の出身で、弁護士だった。祖父は福音主義のキリスト教徒で、母方の祖父はコーク県の聖公会の司祭だった。兄のサミュエルは医療宣教師として中国南部へ渡った。1872年に父が天然痘で急死し、私有地からの収入で暮らす一家は、母の実家のあるダブリンへ移った。病弱のため自宅で教育を受け、安定した幸せな子供時代を送った。

1888年にトリニティ・カレッジに入学して、アイルランド語とヘブライ語を学んだが、主に学んだのは音楽で、奨学金を得て学位を取った。卒業後の1892年から翌年にかけ、プロの音楽家を志してドイツに留学したが、引っ込み思案な性格では人前で演奏できないことに悩み、音楽をあきらめて文学の道を選ぶことを決めた。いったん帰国したのち、1894年にソルボンヌ大学に留学して文学を学んだ。従姉妹の友人と恋仲になったが、互いの信仰の違いから結婚を断られた。1896年にイタリアを旅行し、パリで詩人イェイツと出会って、アラン諸島に行くことや、アイルランドに帰ってダブリンで創作することを強く勧められた。1897年にはホジキンリンパ腫を発病した。夏にはアラン諸島に滞在し、オーガスタ・グレゴリーの自宅も訪ねている。

1903年にパリから帰国した。カトリック教徒が大半を占めるアイルランドで、植民者の子孫である中流のプロテスタントの視点から、現実を厳しく観察する目と、皮肉に満ちた簡潔な表現を身につけた。アイルランドを理想化する傾向が盛んだった文学運動のなかで、強い風刺の精神を貫き、通俗性と芸術性を兼ね備えた独自の文体で、典型的なアングロ・アイリッシュ文学を生み出した。農村の貧しいカトリック教徒を主に描き、その異教的な世界観にも注目した。作品の筋や風景、舞台は、旅した土地から取られている。1903年に『谷の影』、1904年に『海へ騎りゆく者たち』、1905年に『聖者の泉』、1907年に紀行文『アラン島』、1908年に『鋳掛屋の結婚』、1909年に『詩と訳詩』などを発表した。

1905年にアベイ座の文学アドバイザー兼ディレクターとなった。1907年1月に初演された『西の国のプレイボーイ』は、痛烈な批判を盛り込んだ内容と、貧しい農民の粗野な描写、父殺しを理想化した筋書きのため、観衆が憤り、ダブリンの街頭で暴動が起こった。1909年にはアベイ座の女優モリー・オールグッドと婚約したが、容態が悪化し、3月24日にナーシング・ホームで亡くなった。37歳だった。未完のまま残された『悲しみのディアドラ』は、アイルランド神話の悲劇に基づく戯曲で、1910年に刊行された。創作期間は短かったが、彼はアイルランドを代表する劇作家となり、ベケットらにも影響を与えたとされる。

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