伝記
イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス・イ・パスクアルは、1860年5月29日に生まれ、1909年5月18日に没したスペインの作曲家、ピアニストである。カタルーニャ地方で生まれ、4歳でピアノ演奏をするほどの天才児だった。イサークという名前を根拠に、本人は自らをユダヤ人と信じがちだったが、無二の親友だったヴァイオリニストのエンリケ・アルボスによれば、ユダヤ人ではなかったという。
4歳でバルセロナで初めて公開の場に出て、その2年後に母に連れられてパリへ行き、9か月間、名高いピアノ教授に学んだ。音楽院に入れようとしたが、年齢が低すぎて入学は認められなかったという。帰国後は各地で演奏会を開き、最初の作品「軍隊行進曲」を出版した。1868年に一家でマドリードへ移り、国立音楽・朗読学校で学んで、スペインで最大の音楽の神童と称賛されたが、すぐに学業に落ち着かなくなり、何度も家出を試みた。少年時代については、「7歳でパリ音楽院を受験して、鏡にボールをぶつけて割り、試験官に追い出された」「10歳で家出して、演奏しながら国内を放浪した」「12歳で1人で中南米に密航した」などと、世界を股にかけた冒険物語として伝記で知られてきたが、これらはアルベニス自身の話を書き留めたもので、ほとんどが嘘であることが判明している。
のちにブリュッセル王立音楽院で学び、1880年にブダペストへ赴いて、フランツ・リストに師事しようとしたが、当時リストはヴァイマルにいて会えなかった。その後の2年はマドリードで、演奏会や、スペインの主要都市を回る演奏旅行に過ごし、この頃に最初の舞台作品、三つのサルスエラを書いた。1883年に教師で作曲家のフェリペ・ペドレルに会い、スペイン音楽の作曲を勧められた。同年、弟子のひとりだったロジーナ・ホルダーナと結婚し、一男二女をもうけた。1890年代までは、ロマン派の書法によるサロン的なピアノ曲を多く残したが、1897年の『ラ・ベーガ』以降は、高度なピアノ技巧と旋法などを駆使した、独自の作風を確立した。ピアニストとしての頂点は1889年から1892年で、英国、ドイツ、オーストリア、ベルギー、フランスを訪れ、最大の成功はロンドンで、1889年6月12日の最初のリサイタルに始まった。1890年代にはロンドンとパリに住み、主として劇場作品を作曲し、近年になって英語によるオペラ『マーリン』が録音された。
1900年に腎臓病を患い、ピアノ曲の作曲に戻った。1905年から1909年の間に、最もよく知られた作品である、12曲からなる「イベリア」を書いた。これはスペイン音楽としてだけでなく、古今のピアノ作品の中でも傑作とされ、ギター用に編曲されることも多い。1903年には即興演奏を3テイク録音に残している。ただしオーケストレーションは苦手で、「ピアノ協奏曲」と「カタルーニャ狂詩曲」は友人の手を借りたことが、書簡から判明している。1909年、フランスのピレネー山中のカンボ・レ・バンで腎疾患のため亡くなり、バルセロナのモンジュイック墓地に埋葬された。絶筆の『アスレーホス』は友人のグラナドスにより完成された。
同じ年に亡くなった人物
- 張之洞 (1909年没)
- ヘルマン・ミンコフスキー (1909年没)
- フランシスコ・タレガ (1909年没)
- ハリー・ゴーヴィア・シーリー (1909年没)
- ルペルト・チャピ (1909年没)
同じ地域に関係する人物
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- レオポルド・オドンネル (1867年没)
- ピョートル・アレクサンドロヴィチ・オリデンブルクスキー (1924年没)
- ブレーズ・ジャーニュ (1934年没)
- アンリ・エマニュエリ (2017年没)