HISTORICAL PERSON · 1908年没

ヘンリー・キャンベル=バナマン

イギリスの政治家。1899年に自由党党首となり、1905年からの自由党政権の最初の首相を務めた。1906年の総選挙で377議席の大勝を得たが、保守党が貴族院で法案を阻止し、1908年に病で退任した。

生涯
1908年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ダウニング街)
出生地
イギリス連邦(グラスゴー)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

サー・ヘンリー・キャンベル=バナマンは、1836年9月7日にスコットランドのグラスゴーで生まれ、1908年4月22日に没したイギリスの政治家である。1899年に自由党党首となり、1905年12月からの自由党政権の首相(在職1905年-1908年)を務めた。もとの姓はキャンベルで、六人きょうだいの次男で末っ子であり、父ジェームズ・キャンベルは、グラスゴーの織物・衣料関係の商会を営み、市議会議員から1840年から1843年まで市長を務めた人物である。母ジャネットは、ヘンリー・バナーマンの娘である。1851年から1853年までグラスゴー大学で学び、ギリシア語の成績が優秀でコーワン金メダルを受けた。1854年にケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学した。大学を卒業すると、家業の商会に就職し、1860年に組合員となり、1868年まで務めた。同じ1860年にサラ・シャーロット・ブルースと結婚した。子はなかった。

1868年4月、スターリング自治区の補欠選挙に自由党から出馬したが、同じ自由党のラムジーに565票対494票で敗れた。しかし同年11月の総選挙で、今度は2,192票対1,670票で当選し、以後40年間この議席を保った。母方の叔父ヘンリー・バナーマンの遺言に従って、姓をキャンベル=バナマンに変えたが、この長い名前を好まず、友人にはCBと呼ぶよう頼んだ。第1次グラッドストン内閣期に政務次官を務め、第2次グラッドストン内閣では、陸軍省の財政担当政務次官などを務めた。1886年の第3次内閣では陸軍大臣となり、1892年からの第4次内閣でも陸軍大臣を務めた。ローズベリー伯爵内閣でも留任したが、1895年6月に、陸軍予算問題で政府案が採決に敗れて内閣は総辞職に追い込まれた。

1898年暮れにハーコートが党首を辞職すると、1899年に、ライバルのアスキスを抑えて自由党党首となった。第二次ボーア戦争をめぐって、党は、戦争を支持する自由帝国主義派、批判する親ボーア派、戦争を支持しながらも早期の講和を求める中間派の三つに分かれた。キャンベル=バナマンは中間派で、和合に努めたが、戦争が泥沼化するなかで徐々に親ボーア派的になり、イギリス軍の掃討戦を「野蛮戦法」と批判した。党は分裂寸前に陥ったが、アスキスが調停的な立場に転じたおかげで危機は回避された。1905年11月23日の演説でアイルランドの漸進的自治を訴え、反発したローズベリー伯爵が党を去ったが、党内の紛争は終息した。

1905年12月、バルフォア保守党政権が関税改革論争で分裂して総辞職すると、国王エドワード7世から組閣の命を受けた。「邪悪な帝国主義に反対するが、常識に基づく帝国主義には賛成する」という折衷的な立場をとり、アスキスら自由帝国主義派と、ロイド・ジョージら急進派をともに閣内に取り込んだ。1906年1月の総選挙で自由党は377議席を獲得し、地すべり的な大勝利を得た。しかし貴族院では保守党が多数派を占め、重要法案はほとんどが否決されるか骨抜きにされた。1906年4月の教育法案の廃案に強い怒りを感じ、貴族院の権限縮小の必要を感じるようになり、1907年6月24日には、庶民院の優越を定める法が必要との決議を可決させた。1908年2月に心臓発作で倒れ、4月1日に首相を辞して、アスキスが後を継いだ。それから間もない4月22日、ダウニング街10番地の官邸で死去した。庶民院の優越を定める議会法は、1911年のアスキス内閣で実現した。

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