伝記
ゲロン(ゲロ)は、シラクサ王ヒエロン2世の長男である。生年は不明で、紀元前266年より前に生まれたとされ、紀元前216年に50歳を超える年齢で、父より少し先に世を去った。南イタリアのマグナ・グラエキアに属するシラクサの王子として生きた人物である。
伝わることは多くないが、父の静かで思慮深い性格を受け継いでいたようだとされる。ポリュビオスは、ゲロンが個人的な野心をすべて捨て、両親への服従と敬意を尽くしたことを称賛している。ヒエロンはそれに報いるように、ゲロンを政務に参与させたとみられ、ゲロンは王の称号まで受けたらしい。紀元前240年ごろに父とともにシラクサの僭主の称号を受けたともされる。アルキメデスは著作『砂粒を数えるもの』をゲロンに捧げ、その中で彼を王と呼んでいる。ゲロンの名を刻んだ貨幣も、古い著述家は先代のゲロンのものとしたが、この王子のものだと認める貨幣学者もおり、表の頭像は本人かもしれないという。
家族については、父ヒエロン2世と、歴史家ピリストスや将軍レプティネスの子孫とされる母ピリスティスのあいだに生まれ、デマラテとヘラクレイアという二人の姉妹がいた。この姉妹は紀元前214年にシラクサ市民に殺されたと伝わる。ゲロンはエピロス王ピュロスの娘ネレイスを妻とし、息子ヒエロニュモスと娘ハルモニアをもうけた。ハルモニアはシラクサ人テミストスに嫁いだ。
リウィウスは、カンナエの戦いでローマが大敗したのち、ゲロンがローマとの同盟を捨ててカルタゴ側につこうとしていたと述べる。ローマの同盟都市へ友好的な働きかけを始め、紀元前216年に亡くならなければ、シチリア全島をカルタゴ側に寝返らせたかもしれないという。ゲロンは老いた父もローマも軽んじていたとされる。しかしこの話は、ポリュビオスが伝える父への一貫した服従の姿とは大きく食い違い、あまり信用できないともいわれる。
さらにリウィウスは、ゲロンの死があまりに折よく訪れたため、父ヒエロンが息子を殺したのではないかという疑いを示唆している。だがこれも信憑性は低いと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- ヒエロン2世 (紀元前215年没)
- マルクス・アティリウス・レグルス (紀元前227年の執政官) (紀元前 215年)
- Achaeus (紀元前215)
同じ地域に関係する人物
- ティモレオン (紀元前330年没)
- ヒエロン2世 (紀元前215年没)
- ディオニュシオス1世 (紀元前367年没)
- Ecphantus the Pythagorean (紀元前400)
- ピリストス (紀元前355)