伝記
フィリップ1世は、カペー朝の第4代フランス王で、1060年から1108年まで在位した。父は第3代国王アンリ1世、母はキーウ大公ヤロスラフ1世の娘アンヌである。フィリップというギリシア語で「馬好き」を意味する名は、母の影響で付けられたとされ、当時の西欧ではきわめて異国風だった。フランス王として初めて非ゲルマン系の名を持つ王となり、東欧の王家の血を引くことを示して王の権威を高める狙いがあったとされる。父は衰えを感じて生前に子を王に立てる慣例に従い、フィリップはランスで戴冠した。父が1060年に没したとき、フィリップはまだ7歳で、母アンヌと叔父のフランドル伯らが摂政として補佐し、王が単独で統治するのは1066年ごろからとなる。
治世を通じてフィリップは、王領を広げ、強大すぎる家臣を抑えるという、のちのカペー朝の基本方針を形づくった。ヴェルマンドワの一部やガティネ、フランス領ヴェクサンを手に入れ、1101年には十字軍に出発する騎士から多額の金でブールジュ副伯領を買い取った。行政を整える一方で、収入を確保するために教会の財産を処分し、聖職を売ったため、グレゴリウス改革派の非難を浴びた。1071年にはエノー伯未亡人リシルドを支援してロベール・ル・フリゾンと戦い、カッセルの戦いで敗れたが、サン・トメールを奪い、和睦してロベールをフランドル伯と認めた。そして同盟を固めるため、その養女でホラント伯の娘ベルト・ド・オランドを妻に迎えた。ベルトとの間には、のちの第5代国王ルイ6世らが生まれた。ルイという名は、クロヴィスや敬虔王ルイを連想させるものだと指摘されている。
最大の強敵は、ノルマンディー公でイングランド王となったウィリアム征服王であった。1076年にドル付近で打撃を与え、翌1077年にヴェクサンを手に入れると、ウィリアムはブルターニュの征服をあきらめて和解した。フィリップは征服王の一族の内紛をあおる策をとり、反乱した長男ロベール・クルトーズを支援した。その見返りにジゾールの町を得ている。一方、1079年には直属の家臣の反乱でピュイゼの近くで王軍が壊滅し、王の威信は長く傷ついた。
私生活の乱れは、王の評判を大きく損なった。1092年、アンジュー伯フルク4世の妻ベルトラード・ド・モンフォールに心を奪われ、太り過ぎを理由にベルトを離縁し、ベルトラードと再婚した。ベルトは持参金の領地の要塞モントルイユに軟禁され、翌年に世を去ったという。この再婚でも二男二女が生まれた。教会法に反する再婚のために、1094年に破門を受け、1095年のクレルモン教会会議では教皇ウルバヌス2世からも正式に破門を通告された。のちに破門は解かれたものの、ベルトラードと密かに復縁して1104年まで破門が繰り返され、影響力は低下して、第1回十字軍には弟ユーグが代わって加わった。晩年の実権は王太子ルイ6世に移っていった。
1108年7月29日、ムラン城で没した。多くの過ちを自覚していた王は、祖先と共に葬られるにふさわしくないと考え、サン・ドニ修道院ではなく、遺言どおりにサン・ブノワ・シュル・ロワール修道院に葬られたと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- Gertrude of Poland (1108年)
- コンスタンティン・ボディン (1108年)
同じ地域に関係する人物
- カロリーヌ・ジベール (1879年没)
- ジャン=フランソワ・ミレー (1875年没)
- マリー=テレーズ=ラファエル・ド・ブルボン (1746年没)
- ルイ・フェルディナン (フランス王太子) (1765年没)
- フィリップ・ブガルスキー (2012年没)