伝記
バルキヤールクは、1079年か1080年、セルジューク朝の首都エスファハーンに生まれた。父はスルタンのマリク・シャー、母はその従姉妹ズバイダ・ハトゥンで、二人の長子であった。名はテュルクの言葉で「堅固で揺るぎない光」を意味する。1092年11月に父が死去した時には十三歳で、異母弟たちも幼かった。王妃テルケン・ハトゥンは宰相タージュルムルクと結び、自分の四歳の息子マフムードを擁立した。軍を送ってエスファハーンを占領し、バルキヤールクを捕らえたが、故宰相ニザームルムルクの一族と支持者から成るニザーミーヤが彼を救い出した。後見人グムシュテギーンのもとに送られ、レイでスルタンに立てられた。
1093年1月、バルキヤールク側の軍はマフムード派を破り、タージュルムルクを捕らえた。バルキヤールクはその行政能力を認めて自らの宰相にしようとしたが、ニザームルムルク殺害への関与を疑う支持者たちは復讐を求め、2月12日に処刑させた。テルケンは王族イスマーイールを呼んで攻撃させたものの、グムシュテギーンが破って処刑した。1094年、テルケンが急死し、一か月後にはマフムードも死去した。残る有力な競争相手は、父の弟でシリアを支配するトゥトゥシュであった。レイを占領した叔父に対し、バルキヤールク軍は1095年2月25日に近郊で勝利し、叔父を戦死させた。これによってイラン西部とイラクの支配を固め、バグダードのカリフからも承認された。
東方では叔父アルスラーン・アルグンがホラーサーンの大部分を押さえていた。1095年に送った別の叔父ボリバルスの軍は敗れたが、1097年に異母弟サンジャルを派遣すると、敵は配下の軍人に殺され、戦わずに奪回できた。バルキヤールクはサンジャルをホラーサーンの副王とし、専任の後見人と宰相を付けた。さらにテルメズまで遠征し、カラハン朝の君主たちの地位を承認した。ホラズムではクトゥブッディーン・ムハンマドを総督に任命した。バルフに七か月滞在して西へ戻ったが、東部では反乱が続いた。サンジャルがバルフ方面を固める一方、ニーシャープールの硬貨からはバルキヤールクの名が消え始めた。
1098年か1099年、異母弟ムハンマド・タパルが反乱を起こした。これを促したのは、バルキヤールクに解任されて弟に仕えた、ニザームルムルクの子ムアーイダルムルクである。反乱はムハンマドの拠点ギャンジャから始まり、ニザーミーヤやエスファハーンの名家も弟を支持した。バルキヤールクは同市への入城を阻まれ、レイも奪われた。バグダードの軍事長官まで弟側に回り、戦争は五年を経ても決着せず、都の支配権も双方の間を移った。サンジャルもムハンマドを支援したが、弟は最終的な勝利を得られなかった。
1104年、国庫が底をついたバルキヤールクは和平を求めた。合意によってイラン中央部を自分が、アゼルバイジャン、アルメニア、イラク北部をムハンマドが、ゴルガーンとホラーサーンをサンジャルが治めることになった。翌1105年、エスファハーンへ向かう途上で結核のため死去した。二十五歳であった。幼い息子マリク・シャー2世が後を継いだが、バグダードを占領したムハンマドに殺害された。
同じ年に亡くなった人物
- ニケフォロス・メリセノス (1104年)
- ドゥカーク (1104年没)
- ペドロ1世 (アラゴン王) (1104年没)
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