伝記
エティエンヌ1世は、1065年ごろに生まれたブルゴーニュの貴族で、豪胆伯とも呼ばれた。父は大伯と呼ばれるブルゴーニュ伯ギヨーム1世、母はエティエネットである。母の出身についてはフォワ家、バルセロナ家、ヴィエンヌ家などに結びつける説があり、一定しない。多くの兄弟姉妹を持ち、兄ルノー2世は父の後継者となった。兄弟のレーモンはカスティーリャ王家の女子相続人と結婚し、ガリシア伯となった。また、ユーグはブザンソン大司教となり、ギーも教会の道に進んだ。オクタヴィアンも聖職者となり、聖徳ある者として没したとされる。一族は伯領の継承だけでなく、聖職や婚姻を通じても各地の有力者とつながっていた。
1087年に父が没すると、エティエンヌは兄ルノーとともにマコン伯位を継いだとされる。翌1088年、母の死後にはヴィエンヌ伯の称号も得たという。同じ年、兄弟のギーがヴィエンヌの司教となった。エティエンヌはロレーヌ公ジェラールの娘ベアトリスと結婚し、ルノー、ギヨーム、イザベル、クレマンスをもうけた。娘クレマンスはマルグリットとも呼ばれる。兄ルノー2世が第1回十字軍へ向かうと、エティエンヌはブルゴーニュ伯領の統治を託され、1097年ごろにはその摂政を務めたとされる。兄は十字軍の途上で死去し、エティエンヌが伯位を継いだといわれるが、その死の年には1097年とする説と1099年ごろとする説がある。
1101年、エティエンヌ自身も十字軍に参加し、ブロワ伯エティエンヌ2世の軍で指揮を執った。5月にはニコメディアに着き、6月23日のアンカラ攻略に加わった。だが、その後のメルジフォンの戦いでは十字軍が大敗した。エティエンヌはトゥールーズ伯レーモン4世やブロワ伯とともに逃れ、シノペへ向かった。そこから船でコンスタンティノープルへ戻ったとされる。この敗北によって聖地への道が途絶えたわけではなく、年末にはレーモンの指揮下でアンティオキアに到着した。さらにジェノヴァ艦隊の助力を受けたタルトゥース攻略に参加し、南へ進んだ。
1102年の復活祭にはエルサレムへ到達した。そこで新たに成立したエルサレム王国にとどまり、エジプトの宰相アルアフダル・シャーハンシャーの攻撃に備えた。しかし同年5月、ラムラの戦いで戦死した。命日は17日とも18日ともいわれ、死地についてもラムラまたはアスカロンと伝えられる。妻ベアトリスは夫の死後も生き、1116年または1117年に没した。イザベルはシャンパーニュ伯ユーグと結婚し、クレマンスはアルボン伯ギーニュ4世の妻となり、ギーニュ5世の母となった。兄弟のギーは1119年に教皇に選ばれ、カリストゥス2世を名乗った。
息子たちからはブルゴーニュ伯家の複数の系統が続いた。ルノー3世がブルゴーニュ伯の称号を得るのは1127年で、兄の家系に属する従兄弟とその息子の支配を経てのことであった。ルノー3世は1148年に没し、幼い娘ベアトリスを残した。この孫娘は1156年に皇帝フリードリヒ1世と結婚し、ブルゴーニュ伯領を皇帝へ伝えた。もう一人の息子ギヨームからはオーソンヌの伯家が続き、後のシャロン家へとつながった。
同じ年に亡くなった人物
- テオドリクス (対立教皇) (1102年)
- グリエルモ・エムブリアコ (1102年)
- Azalais de Porcairagues (1102年没)
- ヴィターレ・ミキエル1世 (1102年)
- Felicia of Sicily (1102年)
同じ地域に関係する人物
- イスラエル・タル (2010年没)
- S. Yizhar (2006年没)
- イサル・ハルエル (2003年没)
- イミ・リヒテンフェルド (1998年没)
- モーシェ・アレンス (2019年没)