伝記
エリー・デュコマンは、1833年2月19日にジュネーヴで生まれ、1906年12月7日にベルンで没したスイスのジャーナリスト、政治家で平和活動家である。1867年の平和と自由連盟の設立に関わり、1902年にはシャルル・アルベール・ゴバとともにノーベル平和賞を受賞した。家庭教師や語学教師を経て、ジャーナリスト、編集者として働いた。1855年、22歳のとき、急進派のジェームズ・ファジーの求めで、急進派の新聞『ジュネーヴ評論』の編集を引き受け、1862年まで務めた。1858年から1862年、続いて1864年から1866年は急進派の議員としてジュネーヴの大議会に議席を持ち、1862年にジュネーヴ州の国務長官に任命されたが、1865年に辞職した。ジュネーヴを離れてデレモンに移り、新聞の記者として働いた。
1868年にベルンへ移り、連邦官邸で翻訳部長として働いた。スイス連邦官邸での通訳としての勤務は、1869年から1873年とも伝えられる。1868年から1878年はベルンの大議会に議席を持った。1869年にはスイス民衆銀行の創設メンバーに加わり、1892年まで取締役会に名を連ねた。1871年に新聞『ヘルヴェティア』を創刊し、連邦憲法の改正案を擁護したが、この案は1872年に国民投票で否決された。同じ年、ベルン鉄道の事務総長となり、会社が連邦に買い上げられる1903年までその職にあった。1874年から1877年には、ビエンヌ市の大議会に議席を持った。24歳のときにジュネーヴでフリーメイソンに加入し、ベルンの支部でも、1882年から1884年に長を務め、1890年から1895年はスイスのアルピナ大ロッジの総長を務めた。
早くから、民主主義と自由に基づく平和と、法と仲裁による紛争解決を求め、著作や活動を通じて訴えた。1862年にジュネーヴの平和委員会に加わり、1867年には、ガリバルディらとともに、ジュネーヴで平和と自由の会議を組織した。翌年にはその結果として生まれた平和団体、平和と自由連盟の設立に参加し、25年間、副会長を務めた。1868年から1870年にかけては、連盟の機関誌『ヨーロッパ合衆国』の編集を担当した。1891年、ローマで開かれた第3回平和会議が、ベルンに国際平和ビューローを置くと決め、これは加盟する各団体の活動を調整するための組織だった。デュコマンは、この国際平和ビューローの初代事務局長となり、俸給は受け取らず、理想主義のもとで職に就きたいと述べた。亡くなるまで無給で務め、1899年のハーグ会議のための宣伝、トルコでのアルメニア人迫害に関する意見表明、ボーア戦争の調停を求める連邦政府と米国大統領への請願など、多くの文書を発表した。鋭敏な組織力により、団体を成功に導き、1902年のノーベル平和賞に結びついた。受賞後も1906年に没するまで事務局長を務めた。著作に、『モーセの啓示』(1863年)、『カルヴァンとジュネーヴ人』(1864年)、詩集『微笑』(1887年)、『平和の友の実際計画』(1897年)、『平和運動史概要』(1899年)があり、没後に詩集『最後の微笑』(1908年)も出た。
同じ年に亡くなった人物
- カール・シュルツ (1906年没)
- Marcelo Spinola y Maestre (1906年没)
- エドゥアルト・フォン・ハルトマン (1906年没)
- ジュゼッペ・ジャコーザ (1906年没)
- フリードリヒ・バイルシュタイン (1906年没)
同じ地域に関係する人物
- カール・ラパン (1996年没)
- Niklaus Manuel (1530年没)
- アルデグンデス・デ・ブラガンサ (1946年没)
- オイゲン・フーバー (1923年没)
- アルベール・アンカー (1910年没)