HISTORICAL PERSON · 1092年没

フィラレトス・ブラカミオス

アルメニア系のビザンツ将軍。皇帝ミカエル7世を認めず、事実上独立した国家を支配した時期がある。

生涯
1092年没
死亡地
トルコ共和国(カフラマンマラシュ県 / カフラマンマラシュ)
出生地
—
出典
世界地図
トルコ共和国(カフラマンマラシュ県)

伝記

フィラレトス・ブラカミオスは、十一世紀の東ローマ帝国に仕えたアルメニア系の将軍で、のちに南東部の国境地帯に自立的な支配領域を築いた。ヴァスプラカンに由来するアルメニア貴族ヴァラジュヌニ家の出身で、一族は帝国の軍務に入っていた。言語や習俗の面ではギリシャ文化になじみ、信仰もカルケドン派であった。軍人としては歩兵部隊の指揮官、カッパドキアの軍団の副司令官などを務め、次第に高位へ進んだ。クーロパラテスやドゥクス、東方の軍司令官などの称号を帯び、その地位の変化は印章にも残されている。

当時、アルメニア高地やアンチタウルス山脈にはトルクメン人戦士の勢力が及ぶ一方、キリキア平野からディヤール・ムダルにかけては在地のキリスト教徒領主が残っていた。皇帝ロマノス四世ディオゲネスのもとでは高級指揮官として働いた。一〇六九年、皇帝がアフラートを包囲する間、メソポタミアの国境を守る主力軍の指揮を任された。しかしセルジューク朝の軍に敗れ、敵軍はカッパドキアやリュカオニアの奥深くへ進み、略奪を行って撤退した。一〇七一年のマンジケルトの戦いでも皇帝軍の一部隊を率いた。大敗ののちも相当数の兵を保持し、ロマノポリス要塞の軍を指揮したが、後継皇帝ミカエル七世ドゥーカスの権威を認めなかった。東部国境の守備隊を集め、アルメニア人の多い軍を基礎に抵抗を続けた。

ゲルマニケイア周辺を中心として形成された領域は、キリキアからエデッサに及んだ。アンティオキアやユーフラテス川流域にも支配を広げ、名目上は帝国の権威のもとにありながら、実際には自立した勢力となった。軍の中核にはレーボーの率いる八千人のフランク人がおり、ほかにも西方出身の傭兵を組み込んだ。一方、同じアルメニア人でもアルメニア使徒教会に属する者たちとは対立があり、アペルガリプやヴァサクらが反対した。一〇七八年、ニケフォロス三世ボタネイアテスの即位に伴い、エデッサを含むアンティオキアのドゥクスに任じられることを条件として、帝位への主張を断念した。これによって帝国から切り離された地域での統治は正式に承認された。シリア教会の総主教座をバリド修道院へ戻そうともしたが、総主教たちはアミダなどの従来の拠点にとどまった。

その後はトルコ勢力の圧迫が強まり、領土を順に失った。一時的にイスラム教へ改宗したともいわれるが、支配地を守り切れなかった。一〇八四年十二月には、息子の裏切りもあって、アンティオキアがルームの支配者スレイマン一世の手に落ちた。一〇八六年にはトルコ側の攻勢が始まり、翌年にはエデッサもマリク・シャーに奪われた。フィラレトスはゲルマニケイアへ逃れたとも伝わるが、没年には一〇八六年、一〇九〇年、一〇九二年などの説があり、晩年の動静は確定しない。

フィラレトスの支配体制は解体したが、そのもとにあったアルメニア人の指導者の一部は残った。ガブリエルはメリテネ、トロスはエデッサ、コグ・ヴァシルはカイスン、ラバン、フロムクラを掌握し、コンスタンティノスという人物はガルガルを保持した。キリキアの山地に拠ったルーペン家も、のちのアルメニア王国につながる勢力を形作った。フィラレトスの息子たちは一〇九八年、第一回十字軍にゲルマニケイアを引き渡した。

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