伝記
カンタベリーのランフランクスは、1005年ごろにパヴィアで生まれたランゴバルド人の聖職者である。父はハンバルドといい、領主層に近い身分だったとも伝えられるが、ランフランクスは幼くして孤児となった。北イタリアで自由学芸を学び、アルプスを越えてフランス、次いでノルマンディーで教えた。1039年ごろからアヴランシュの聖堂学校で三年間教師を務め、1042年にベック修道院の修道士となった。1045年までは世俗との交わりを断って暮らした。
修道院長の勧めで院内に学校を開くと、フランス、ノルマンディーのほか、ガスコーニュ、フランドル、ドイツ、イタリアからも門人が集まった。講義では論理学と教義神学を好み、ベックを中心とする改革の学問的な活動を支えた。聖変化をめぐっては、旧知のトゥールのベレンガリウスに反対し、1050年のヴェルチェッリ教会会議で教義を擁護した。1053年のノルマンディー公ギヨームとマティルダの結婚に反対して追放されかけたとも伝えられる。1054年のトゥール、1059年のローマの教会会議でも、ベレンガリウスの主張と争った。ローマの会議ではギヨームの結婚に教皇の承認を得る役目も果たしたとされる。
1066年には、カーンの聖エティエンヌ修道院の初代院長となった。翌年、ルーアン大司教の候補として推す声があったが、1070年にスティガンドが罷免されると、カンタベリー大司教へ選ばれ、8月29日に就任した。教会の再建と改革に取りかかったものの、かつての弟子であるヨーク大司教トマとの間に、管区と首位権をめぐる争いが起きた。パリウムを受けるため訪れたローマでは、教皇アレクサンデル2世から、イングランドの会議で解決するよう指示された。1072年のウィンチェスター会議で首位権を固めたが、教皇の権威による正式な確立は生涯果たせなかった。修道院制度を支え、教区司祭の禁欲を求め、聖職者の規律や教育の向上を図った。要職をイングランド人からノルマン人へ移す動きも進め、王が不在のときには代理を務めた。
1075年には、三人の伯爵による反乱に対処した。ノーサンブリア伯ウォルシオフが計画を告白すると、伯爵ロジャーに服従を勧め、最後にはその一党を破門した。一方、ウォルシオフの助命を願い、他の反乱者についても巻き込まれただけだとして取りなした。1079年以降には、ベレンガリウスとの論争に関わる『主の肉と血について』を書いた。アリストテレスの実体と偶性の区別を、聖餐における変化の説明に用いた著作とされ、しばらく学校の教科書にもなった。1082年には、バイユー司教ウードをめぐる問題で、司教団の判断を法的に支える役割も果たした。
1087年にウィリアム征服王が死去すると、貴族の間に不満があるなかで、息子ウィリアム・ルーファスの即位を支えた。1088年、ウードらが王の兄ロバートに味方して戦うと、ランフランクスの働きかけにより、王を支援するイングランド人の民兵が現れた。同年にはダラム司教ギヨームの問題にも関与した。新王に政治上の約束を求め、守られないときには諫言した。1089年に高熱で倒れ、5月24日に没した。パヴィア、ベック、バイユーでは聖人として崇敬され、その祝日は5月28日である。
同じ年に亡くなった人物
- ドミタル・ズヴォニミル (1089年)
- ティボー3世 (ブロワ伯) (1089年没)
- 曹国舅 (1089年)
- アブドッラー・アンサーリー (1089年没)
同じ地域に関係する人物
- デービッド・フロスト (2013年没)
- ジョージ・ロジャー (1995年没)
- ジュリアン・シモンズ (1994年没)
- エベニーザー・プラウト (1909年没)
- コンスタンス・ガーネット (1946年没)