伝記
テオドール・モムゼンは、1817年11月30日に、当時デンマークと同君連合にあったシュレースヴィヒのガルディングで生まれた、ドイツの歴史家、法学者、政治家である。質素な家庭に生まれ、父はプロテスタントの牧師で、古典の文化や言語を彼に教えた。アルトナのギムナジウムで学んだのち、1838年からの5年間、キール大学で法律と言語学を学び、1843年にローマ法で博士号に相当する学位を得た。翌年から3年間、デンマーク政府の出資でフランスとイタリアを旅行した。イタリア滞在中には、サン・マリノでラテン語碑文の研究で名高い人物と出会い、当時カンピドリオで行われていた考古資料、すなわち碑文、貨幣、パピルス文書を取り入れる研究に関わった。
帰国直後に1848年革命が起き、これに参加した。ライプツィヒ大学のローマ法教授となったが、政治活動のために1851年に教授職を解任され、国外へ脱出した。1852年にチューリッヒ大学のローマ法教授に就任し、この年に『スイス・ラテン碑文集』を出版した。1854年にブレスラウ大学の教授となり、1861年にベルリン大学の古代史教授に就任した。1853年にプロイセン科学アカデミーの通信会員、1858年に正会員となり、1873年には終身書記に任命された。1854年には、ベルリンのアカデミーの資金で、ローマ帝国のラテン語碑文をすべて編纂する『ラテン碑文集成』の事業を始めた。死去した年までに、12万を超える碑文が刊行された。同じ1854年に32歳で、以前に一目惚れした15歳年下のマリー・ライマーと結婚し、翌年に第一子が生まれた。子は15人にのぼり、長女マリーは、ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフと結婚した。
主な業績は、『ローマ史』、『ラテン碑文集成』の編纂、『ローマの国法』と『ローマの刑法』である。『ローマ史』は1854年から1856年に出た最初の三巻で、ローマによるイタリア征服を、当時のイタリア統一運動を意識してか、イタリック人の統一と捉え直して好評を得た。カエサルを英雄視する一方、抵抗したキケロやポンペイウスを卑小化した。叙述に当時のプロイセンの現代用語を用いたため、一般読者や当時の知識人に高く評価されたが、その現代性は歴史学界から批判された。碑文や貨幣などを史料に取り入れて、従来の歴史学を飛躍的に革新し、ニーブールを超えたといわれる。文学的な価値に加え、今も基本的な重要性を持ち、1902年に「歴史記述の現存する最大の巨匠」として、ノーベル文学賞を受賞した。
政治では、1861年にドイツ進歩党員となり、1863年から1866年にプロイセン下院議員を務めて、ビスマルクから憲法を守ることを党是とした。のちに国民自由党を経て、帝国議会議員となり、ビスマルクの貿易政策を批判して告訴された。1884年にはドイツ自由思想家党員となった。トライチュケの反ユダヤ主義には自由の原則を侵すものとして激しく反対した。最晩年には「ゲーテ同盟」の設立に関わった。シャルロッテンブルクの自宅から停留所まで本を読みながら歩き、路面電車に乗っても読み続けたため、「一秒たりとも無駄にしない」と知られた。1903年10月末に脳卒中で倒れ、11月1日に自宅で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- エドウィン・ロード・ウィークス (1903年没)
- 尾崎紅葉 (1903年没)
- リチャード・ジョーダン・ガトリング (1903年没)
- フレデリック・ロー・オルムステッド (1903年没)
- アレクサンダー・ラムジー (1903年没)
同じ地域に関係する人物
- ウルリヒ・フォン・ハッセル (1944年没)
- アルベルト・ロルツィング (1851年没)
- アレクサンドル・アレクサンドロフ (作曲家) (1946年没)
- イルゼ・ステパット (1969年没)
- フリッツ・マントイフェル (1941年没)