伝記
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(ゴーガンとも表記される)は、1848年6月7日、二月革命の年にパリに生まれたフランスのポスト印象派の画家である。父クローヴィスは共和主義者のジャーナリストで、母アリーヌ・マリア・シャザルの母は、初期社会主義の主唱者でペルー人の父を持つフローラ・トリスタンだった。1851年、ナポレオン3世のクーデターで職を失った父は、一家とともにペルーに向かったが、航海中に急死した。残されたポールと母と姉は、リマで叔父を頼って4年間を過ごした。7歳のとき、一家はフランスに戻り、父方の祖父を頼ってオルレアンに住んだ。スペイン語で育ったポールは、ここでフランス語を身に付けた。
地元の学校ののち、カトリック系の寄宿学校に3年間通い、13歳のとき海軍予備校の試験に失敗してオルレアンに戻り、リセを修了した。その後、商船の水先人見習いとなって世界中の海を巡った。1867年7月に母が亡くなったが、数か月後にインドで姉の知らせを受けるまで知らなかった。1868年に兵役でフランス海軍に入り、1870年まで2年間勤めた。1871年、23歳でパリに戻ると、母の交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きで、パリ証券取引所の職を得て株式仲買人となった。その後11年間は実業家として成功し、1879年には株式仲買人としてだけで3万フランの年収があり、絵画の取引でも同程度の収入を得ていた。1873年にデンマーク人のメット=ソフィー・ガッドと結婚し、5人の子が生まれた。
仲買人の仕事を始めた1873年頃から、余暇に絵を描くようになった。住んでいたパリ9区には印象派の画家が集まるカフェが多く、画廊を訪ねたり、新進画家の作品を購入したりした。カミーユ・ピサロと知り合い、日曜日にはピサロの家の庭で一緒に絵を描いた。1876年に作品の一つがサロンに入選した。1879年の第4回印象派展には息子の彫像を、1881年と1882年には絵を出品したが、不評だった。1882年にパリの株式市場が大暴落して絵画市場も縮み、画商デュラン=リュエルが買い付けを止めたため、収入は急減した。彼は画業を本業にすることを考え始め、1883年10月、ピサロに画家として暮らしていきたいと手紙で伝えた。翌1884年1月、家族と生活費の安いルーアンに移ったが、うまくいかず、妻はデンマークに戻った。ゴーギャンも11月にコペンハーゲンへ向かい、防水布の販売を始めたが、言葉の壁で失敗した。妻の求めで、1885年にパリに戻った。
ここで6歳の息子クローヴィスを連れ、困窮して雑多な雇われ仕事を余儀なくされた。1886年5月の第8回(最終回)印象派展には19点の絵画と木のレリーフ1点を出品した。同じ年に、ピサロとは反目している。1886年夏には、ブルターニュのポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らし、生活費の安さが理由だったが、若い画学生たちとの交流は思わぬ実りをもたらした。エミール・ベルナールらとの交流から生まれたグループは、純色の大胆な使用と象徴的な主題を特徴とし、ポン=タヴァン派と呼ばれる。彼は、写実を重視しすぎる伝統的なヨーロッパの絵画に反発し、フォークアートや浮世絵の影響を受けて、平坦な色面と輪郭線のクロワゾニスムに進んだ。その真髄が1889年の『黄色いキリスト』である。1887年にはパナマを訪れ、6月から約半年はマルティニークに滞在した。1888年にはアルルのファン・ゴッホの「黄色い家」で9週間共同生活を送ったが、二人の芸術観は噛み合わず、関係は悪化した。1903年5月8日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジュゼッペ・ザナルデッリ (1903年没)
- リチャード・ジョーダン・ガトリング (1903年没)
- ヴァシーリー・ドクチャーエフ (1903年没)
- アレクサンダル1世 (セルビア王) (1903年没)
- ハンス・ギューデ (1903年没)
同じ地域に関係する人物
- マヌエル・デ・ゴドイ (1851年没)
- イヴ・ナット (1956年没)
- アントワーヌ・バルナーヴ (1793年没)
- エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン (1927年没)
- エミール・ファヨール (1928年没)