HISTORICAL PERSON · 1903年没

オットー・ヴァイニンガー

1903年に主著『性と性格』を刊行し、同年23歳でベートーヴェン終焉の館で自殺したオーストリアのユダヤ系哲学者。ヴィトゲンシュタインが強い感銘を受けたが、今日では性差別的で反ユダヤ的とされる。

生涯
1903年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

オットー・ヴァイニンガーは、1880年4月3日、ウィーンに生まれたオーストリアのユダヤ系哲学者である。父はユダヤ系の金細工師レーオポルト・ヴァイニンガー、母はアーデルハイトで、ハンガリー系ユダヤ人の家系だった。学業優秀で、1898年7月に中等教育を終え、同年10月にウィーン大学に入学した。哲学と心理学を専攻しながら、自然科学や医学も学んだ。多数の言語に通じ、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、英語を早くから身につけ、のちにはスペイン語やイタリア語も流暢に操り、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語も読めたという。大学では哲学協会に出席し、ワーグナーの娘婿ヒューストン・スチュアート・チェンバレンの話も聴いた。

1901年秋、論文『エロスとプシュケ』の出版を試みた。ジークムント・フロイトに会ったが、フロイトはこの論文を出版社に推薦しなかった。しかし、ウィーン大学の教授たちはこれを1902年に学位論文として受理し、ヴァイニンガーは7月に哲学博士の学位を受けた。その直後に、プロテスタントの洗礼を受けている。1902年の夏にはバイロイトでワーグナーの『パルジファル』を鑑賞して深く感銘を受け、ドレスデンやコペンハーゲンを経てクリスチャニア(オスロ)まで旅して、そこで初めてイプセンの『ペール・ギュント』の舞台を観た。ウィーンに戻ると、鬱病の兆候が現れ、ドッペルゲンガーにも悩まされた。自殺の決意が次第に固まったが、友人アルトゥール・ゲルバーと長く話し合ったすえ、「まだその時ではない」と悟ったという。

1903年6月、ウィーンのブラウミュラー出版社が、主著『性と性格』を刊行した。ヴァイニンガー自身は、性にまつわる諸問題に新しい光を当てる試みだと述べた。この本は、論文に三つの章を足したものである。全人類は男性的形質と女性的形質を併せ持つと主張し、男性的形質は能動的、生産的、意識的、倫理的、論理的で、女性的形質は受動的、非生産的、無意識的、非倫理的、非論理的だとした。男性の役割は、天才になるために生き、絶対者への抽象的な愛のために性を超越することだとされ、本の相当部分は天才論である。別の章では、自身もキリスト教に改宗したユダヤ人でありながら、ユダヤ人を女性的な存在と分析し、ユダヤ教を「卑劣さの極致」と記した。今日では、この書は性差別主義かつ反ユダヤ主義と見なされている。出版後、本は不評ではなかったが、期待した反響は呼ばず、ライプツィヒの教授パウル・ユリウス・メビウスから攻撃され、盗作だと非難された。深く落胆して見えた彼は、イタリアへ旅立った。

帰国後、最後の5日間を両親と過ごした。10月3日、シュヴァルツシュパーニアー通り15番地の、ベートーヴェンが亡くなった家に部屋を取り、家主の女性に翌朝まで邪魔しないよう頼んだ。その夜、父と兄リヒャルトに宛てて、自殺すると書いた手紙を2通残した。翌朝、盛装して左胸を撃った姿で床に倒れているところを発見され、搬送先の病院で死去した。23歳だった。マツラインスドルフのプロテスタント墓地に葬られた。ベートーヴェンは彼があらゆる天才の中で最も偉大と見ていた人物だった。この死が話題を呼んで、本の評価は高まり、ストリンドベリは熱烈な讃辞を寄せた。ヴィトゲンシュタインは中学生のときに読んで強い感銘を受け、後に最も大きな影響を受けた書物の一冊に挙げた。

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