伝記
ユースフ・アルムータマン・イブン・フードは、サラゴサのタイファ王国を治めたフード朝の王であり、数学の著作を残した学者でもある。父はアフマド・アルムクタディルで、誕生日は分かっていないが、サラゴサのアルハフェリア宮殿に生まれた。アルムータマンという名は、王としての称号アルムータマン・ビッラーフを短くしたものである。1081年、父の死に伴って王位を継いだ。父は領地を二人の息子に分け、ユースフはサラゴサ、トゥデラ、ウエスカ、カラタユドなど西部を得た。一方、兄弟のムンジルには、レリダ、モンソン、トルトサ、デニアなど、王国の東側の領地が与えられた。
フード朝第3代の王として、父の時代からの学芸の保護を続け、アルハフェリア宮殿に知識人を集めた。科学、哲学、美術を支援するだけでなく、自らも占星術や哲学を学び、とりわけ数学に取り組んだ。主著の『完成の書』は、エウクレイデスやアルキメデスらのギリシア数学に加え、サービト・イブン・クッラ、バヌー・ムーサー、イブン・アルハイサムの学説も取り入れた書物である。それまでの現存する著作には見られない定理や証明も含まれる。ユークリッド幾何学で知られていた成果を整理し、一つの書物の中で体系的に説明することを目指していた。この仕事は完成には至らなかった。
王として直面した対外的な脅威は、南方へ領土を広げようとするアラゴン王サンチョ・ラミレスであった。これに対抗するうえで、カスティーリャの武人エル・シッドの傭兵部隊を用いた。エル・シッドはアルフォンソ6世から追放されたのち、1081年にアルムクタディルへ仕官を申し出ており、ユースフの治世にも引き続き仕えた。ユースフは、アラゴンと結んだムンジルの東部領をサラゴサへ再び統合する任務もエル・シッドに与えた。国境付近では争いが続いたものの、父の領地を一つに戻すことはできなかった。エル・シッドはアラゴン軍の攻撃を抑えたが、1083年にはサンチョがグラウス、アイェルベ、ボレア、アルグエダスなど、サラゴサを守る要塞の線を突破した。
ユースフは婚姻によって、従属下のバレンシア王アブー・バクルとの関係も強めようとした。しかしバレンシアをめぐる諸勢力の同盟は複雑であり、アルフォンソ6世も介入した。1085年には、トレド王アルカーディルが、アブー・バクルをバレンシアから排除する援助と引き換えに、トレドをアルフォンソへ明け渡した。サラゴサは他のアンダルス地域とのつながりを断たれ、経済を弱めることとなった。ユースフも1085年に没した。数学の著作について、後のイブン・アルアクファーニーは、完成していれば既存の幾何学書は不要になっただろうと評した。イブン・アクニーンも、エウクレイデスの『原論』やアルキメデスの『球と円柱について』、アポロニオスの『円錐曲線論』と並べて読むべき書物に挙げた。ただし未完の著作だったため、他の数学書に比べると、書写や教育で用いられる範囲は限られた。現在残るのは、著者名を記さない複数の写本に含まれる断片であり、序文や導入部は失われている。出典が当初の序文に示されていた可能性はあるが、残る部分には先行する著者や著作への言及がない。
同じ年に亡くなった人物
- オエル2世 (ブルターニュ公) (1084年没)
同じ地域に関係する人物
- Juan Soldevila y Romero (1923年没)
- ベネディクトゥス13世 (対立教皇) (1423年没)
- カルロス・ラペトラ (1995年没)
- Al-Mustain I (1046年没)
- ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・グスマン (1303年没)