伝記
ラモン・バランゲー2世は、1053年または1054年に生まれたバルセロナ伯である。父はラモン・バランゲー1世、母はアルモディス・ド・ラ・マルシュで、弟バランゲー・ラモン2世とは双子とされる。厚く、麦わら色をした頭髪から、「麻くず毛伯」と呼ばれた。1076年に父が死去すると、弟とともにバルセロナなどの伯領を継いだ。父の遺言は、兄弟が同じ条件で共同統治することを定めていたが、一部にはラモンに有利な扱いもあったとされる。兄弟の意見は合わず、ラモンは領地を分割することを、バルセロナとジローナの司教や子爵らの前で約束した。
1077年末、教皇グレゴリウス7世は、教会改革を進めるため使節アマ・ドロロンをジローナへ派遣した。父が遺言で息子たちを教皇の保護に委ねていたため、この使節は兄弟の和解にも取り組んだ可能性がある。1078年、ラモンは分割の保証として、リェイダからの貢納と、同地のタイファ王に対する関係を弟へ譲った。このころバルセロナとウルジェイはリェイダとともにサラゴサのタイファと争い、キリスト教徒の入植も進んでいた。1079年には教皇がジローナ司教へ書簡を送り、リポイ、サン・クガト、サン・ポンスの修道院長らと協力して、兄弟の争いを終わらせるよう求めた。
同年、兄弟はバルセロナ市をはじめ、カステイベル、オレルドゥラ、ビラフランカなどの領地を分けた。伯の宮殿には半年ずつ交代で住むこととしたが、統治の権限そのものや、裁判、市場、貨幣などから生じる収入は分割しなかった。それでも弟の要求は続き、1080年にはバルベラ城、ブレダ城、カルカソンヌとラゼスの伯領の半分を譲った。ラモンは、今後新たに獲得するものについても、建造または購入する船を含めて分けると約束した。翌夏に予定した遠征も共同で行うことになったが、結局は実行されなかった。この準備に際し、主君アルフォンソ6世と対立したロドリーゴ・ディアス、エル・シッドが協力を申し出たものの、バルセロナでは受け入れられなかった。彼はサラゴサ王に仕え、1082年夏のアルメナルの戦いでは弟バランゲー・ラモンを破って捕虜にした。
妻は、南イタリアのプーリア・カラブリア公ロベルト・イル・グイスカルドとシケルガイタの娘マファルダである。1082年、二人の間には息子ラモン・バランゲー3世が生まれた。同年12月、ラモンはモンセニー地方の森で何者かに殺害された。死去の日は5日とも6日ともされ、狩りの最中だったとも、バルセロナへ向かう途中だったともいわれる。遺体はジローナへ運ばれ、大聖堂に葬られた。殺害を企てたのは弟だと疑われ、単独の支配者となった弟には「兄弟殺し伯」の名がついたが、実行者は明らかでない。マファルダはナルボンヌ子爵エメリー1世と再婚し、息子ラモン・バランゲー3世はのちに叔父の後を継いだ。ラモンの墓は1385年、王の命令で大聖堂の新しい身廊内部へ移され、大理石で覆われて横たわる伯の像が置かれた。1982年に確認された長方形の石棺には、外側に幅約五センチの赤と金色の縦帯十七本が交互に描かれており、アラゴン王冠の紋章の起源をめぐる議論にもかかわった。
同じ年に亡くなった人物
- Synadene (1082年没)
- Marianus Scotus (1082年没)
- アダルベロ (シュタイアーマルク辺境伯) (1082年没)
- アル=ムクタディル (1082年没)
- ヴァルラム1世 (リンブルフ伯) (1082年)
同じ地域に関係する人物
- サルバドール・ダリ (1989年没)
- アメリコ・カストロ (1972年没)
- ジャック・フランソワ・デュゴミエ (1794年没)
- Tom Sharpe (2013年没)
- Alexandre Deulofeu (1978年没)