伝記
大弐三位は、藤原宣孝と紫式部の娘として生まれた平安時代中期の歌人で、本名を藤原賢子という。賢子の読みには、かたいこ、けんしなどがある。1001年、三歳頃に父と死別した。両親の結婚生活は三年余りであった。1017年、十八歳頃に母の後を継いで、一条天皇の后であった彰子、すなわち上東門院に女房として仕えた。宮仕えの初めには越後弁と呼ばれた。この呼び名は、祖父が越後守を務めたことに由来する。藤三位、弁乳母という別名もある。
彰子に仕えた頃には、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らとの交際があった。その後、関白藤原道兼の次男兼隆と結婚し、一人の娘をもうけたとされる。この最初の夫については藤原公信とする説もあり、確定していない。娘はのちに源良宗の妻となり、その息子知房は大弐三位の孫にあたる。1025年、親仁親王が誕生すると乳母に任じられた。この親王が後の後冷泉天皇である。歌人としては、1028年の歌合に出詠したことが知られる。
1037年までには、東宮権大進の高階成章と再婚した。翌1038年には高階為家と一女をもうけたとされる。その後も歌合に参加し、1049年、1050年にも作品を詠進した。1054年には従三位に昇り、夫成章も大宰大弐に就いた。夫の官職と自身の位階を合わせて、大弐三位の名で呼ばれるようになった。1078年の歌合にも出詠しており、八十歳近い高齢になるまで存命だったことが分かる。正確な没年は明らかでない。
家集に『大弐三位集』があり、『藤三位集』ともいう。藤原定頼との贈答歌では、定頼が梅花に添えて、訪れない人を梅の花に重ね、散った後の慰めもないと詠んだのに対し、大弐三位は「春ことに心をしむる花の枝にたかなをさりの袖かふれつる」と返した。『後拾遺和歌集』には三十七首が入集し、女房三十六歌仙にも数えられている。百人一首に採られたのは「ありま山ゐなの篠原風吹はいてそよ人をわすれやはする」で、疎遠になった男が心もとないと言ってきた際に詠んだ歌である。家集の古い伝本としては、大弐三位の筆と伝わる「端白切」が断簡で残り、京都国立博物館、徳川美術館、五島美術館、サンリツ服部美術館などに分蔵されている。
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