HISTORICAL PERSON · 1902年没

セシル・ローズ

デ・ビアス鉱山会社を設立して南アフリカの鉱山王となり、1890年にケープ植民地首相に就いたイギリスの政治家。占領地に自分の名を冠したローデシアと命名し、ジェームスン侵入事件を起こして首相を辞職した。

生涯
1902年没
死亡地
南アフリカ共和国(西ケープ州 / Muizenberg)
出生地
イギリス連邦(ビショップス・ストートフォード)
出典
世界地図
南アフリカ共和国(西ケープ州)

伝記

セシル・ジョン・ローズは、1853年7月5日にイングランドのビショップス・ストートフォードで生まれた、イギリス帝国の植民地政治家であり実業家である。南アフリカの鉱物採掘で巨富を得て、ケープ植民地の首相となり、占領地に自分の名にちなむ「ローデシア」の名をつけた。国教会の牧師フランシス・ウィリアム・ローズと、その2番目の妻ルイーザ・ピーコックの五男として生まれた。きょうだいは男9人(うち2人は幼くして死去)と女3人であった。聡明だが虚弱で、17歳の1870年、ぜんそくの療養のため、学業を中断して南アフリカのナタールで農場を営む兄ハーバートのもとへ送られた。70日の航海で到着した彼は、背が高く貧血気味で、内気で控えめな青年だった。

はじめはピーターマリッツバーグに住み、のち兄の綿花畑で働いたが、土地が合わず、兄は1871年3月にキンバリーのダイヤモンド発見の話を聞いて向かい、ローズも10月に合流した。採掘そのものより、鉱夫に道具や食料を売るほうが儲かると気づき、さらに生産量を握れば、ロンドンの価格を左右できると考えて、キンバリー全体の独占をめざした。成果のない採掘者から権益を買い集めて一つにまとめ、チャールズ・ラッド、バーニー・バーナト、アルフレッド・ベイト、リアンダー・スター・ジェイムソンらキンバリーの有力者とも手を結んだ。1873年、オックスフォード大学オリオル・カレッジで学ぶために英国に戻った際、財産の管理はラッドに任せた。1885年までに、キンバリー地域のダイヤモンド鉱山はほぼすべて彼の手に入り、唯一のライバルだったバーナトを破ってデ・ビアス社を設立し、世界のダイヤモンド生産の9割を支配した。のちにランドの金山の併合にも成功し、南アフリカの鉱山王となった。

1881年からケープ植民地議会の議員となり、1890年にケープ植民地の首相に就任した。この年にグレン・グレイ法を制定し、これは後のアパルトヘイトの原型ともいわれる。ローズは熱心な帝国主義者で、イギリスの勢力がアフリカをカイロまで縦に貫くことを夢見て、「神は世界地図がより多くイギリス領に塗られることを望んでおられる」と語ったと伝わる。1895年には中央アフリカを征服して「ローデシア」と命名した。同年、私兵をトランスヴァール共和国に侵入させようとしたジェイムソン侵入事件を起こし、失敗に終わって評判が傷つき、翌年に首相を辞職した。その後イギリスは南アフリカ進出を進め、ボーア戦争に至る。アングロサクソンを最も優れた人種と信じ、その支配が人類の幸福につながると考えていたとされる。独身を通し、フリーメイソンの会員であり続けた。

1902年3月26日、48歳でケープ近郊のミューゼンバーグで死去し、マトボの丘に葬られた。莫大な資産のほか、ケープ大学の敷地やグルート・シューアの邸宅を南アフリカ国に遺し、遺言でローズ奨学制度が設けられた。近年はその人種差別主義への反発が南アフリカと英国で強まった。2015年にケープタウン大学が銅像を撤去し、オックスフォード大学オリオル・カレッジも顕彰の銘板を外すと決め、2020年にはオックスフォード大学が構内の銅像の撤去を決めた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物