伝記
エクベルト1世は、1036年頃に生まれ、1068年1月11日に没したザクセンの貴族である。ブルノン家の出身で、ブラウンシュヴァイク伯、のちにマイセン辺境伯(在位1067年から1068年)となった。短い生涯のうちに、ザクセンからフリースラントにまで勢力を広げ、帝国の政争にも深く関わった人物である。
父はザクセン貴族のリウドルフで、フリースラント辺境伯でもあった。母ゲルトルートは教皇レオ9世の姉妹とされる。祖母はシュヴァーベンのギーゼラで、リウドルフは皇帝ハインリヒ3世の異父兄にあたる。このためエクベルトはザーリアー家と近い血縁にあった。1038年に父リウドルフが亡くなると、エクベルトはブラウンシュヴァイク周辺の所領を相続し、ブラウンシュヴァイク伯となった。兄の死後、1057年にはフリースラント辺境伯にもなったとされる。
1051年頃から、ヒルデスハイム司教区に隣り合う地域では、エクベルトが司教と主導権を分け合った。オストファーレン伯領もこの年に創設されている。さらにエクベルトは、ハンブルク=ブレーメン大司教領となっていたかつてのフリースラント伯領を手に入れ、大司教の宗主権のもとでフリースラントにも権限と所領を広げた。領内のブラウンシュヴァイクでは商取引を奨励し、キリアクス修道院を創設したと推定されている。この修道院にはブルノン家の墓所がある。1058年、エクベルトはシュヴァーベン公オットー3世の未亡人イルムガルトと結婚した。彼女はトリノ辺境伯の娘で、姉アーデルハイドを通じて、ハインリヒ4世の皇妃ベルタの叔母にあたる。
1056年に皇帝ハインリヒ3世が亡くなると、エクベルトははじめ皇后アグネスを支持し、メルゼブルクへ向かって進軍したマイセン辺境伯ヴィルヘルムの異父弟をゼルケ川で撃退したと伝えられる。しかしやがて反対派へ移った。シュヴァーベン公領を望んだがかなわなかったためではないかともいわれる。1062年、ケルン大司教アンノやオットー・フォン・ノルトハイムとともに、ライン川の島の王宮から幼い国王ハインリヒ4世を連れ去るカイザースヴェルトのクーデターに加わった。ザーリアー家と近い血縁にありながらの行動であった。
1067年、オットー・フォン・オルラミュンデの死去を受けて、エクベルトはマイセン辺境伯領を与えられた。しかし、その翌年の1068年1月に亡くなる。死の直前には、妻イルムガルトと離婚し、前任者の未亡人であるアーデラ・フォン・レーヴェンと結婚しようとしていたとされる。そうすれば前任者のテューリンゲンの所領も得られるからである。後継者は息子のエクベルト2世であったが、1090年に子を残さず亡くなった。ブルノン家の所領は妹ゲルトルート・フォン・ブラウンシュヴァイクのものとなった。ゲルトルートは、のちにマイセン辺境伯となるハインリヒ・フォン・アイレンブルクを含む三人の夫を持ち、マイセンは彼女を通じてこの夫のもとに渡った。
同じ年に亡くなった人物
- 後冷泉天皇 (1068年没)
- アニェス・ド・ブルゴーニュ (アキテーヌ公妃) (1068年没)
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