伝記
ポンス2世・ギヨームは、11世紀前半から中ごろにかけてのトゥールーズ伯である。1019年に生まれ、1037年から1060年まで伯位にあった。父はトゥールーズ伯ギヨーム3世、母はエマ・ド・プロヴァンスで、その長男にあたる。母方からプロヴァンス辺境伯領の称号を受け継いだ。アルビ、アジャン、ケルシーの伯も兼ねたとされる。多くの完全私有地を保持していたことで知られ、ローマ法、サリカ法、西ゴート法に信を置いていたという。
1037年に父の跡を継ぎ、所領のすべてを相続した。弟のベルトランがプロヴァンスを受け継いだのは、母エマの死後の1062年ごろとされ、ずっと後のことである。ポンスはすでに1030年にアルビジョワで大きな権力を握っていた。1037年には、多くの私有教会や、ポルタ・スピナの城の半分、ニームやプロヴァンスにある城などを、結婚祝いとして妃マージョリーに与えている。マージョリーは持参金としてアルビジョワとニームに関する権利をもたらしたといい、素性についてはあまりわかっていない。ナバラ王の娘だったとする説もあるが、同時代の史料に記述がないため、王家の出身とは考えにくいとされる。
1038年には、アルビ司教区をトレンカヴェル家との間で分割した。1040年にはディアンの領地をクリュニー修道院に寄贈している。1047年にクリュニー修道院へモワサックを寄贈した特許状では、初めて宮中伯として言及された。こうした所領の獲得を重ねる政策が、のちのトゥールーズ家の勢力の土台になったと評され、それは二度目の結婚の次男レーモン・ド・サン=ジルの時代に大きく花開いた。
家庭では、最初の妻マージョリーが1044年に没した。二度目の妻は、ユーグ5世・ド・リュジニャンの妃であったアルモディス・ド・ラ・マルシュである。リュジニャン家との婚姻は近親関係を理由に無効とされたと伝わる。1054年にはポンスとアルモディスがナルボンヌでバルセロナ伯と会ったが、ローマ巡礼から戻る途中のバルセロナ伯は、同盟者であるイスラム教徒のトルトサ首長が送った艦隊の助けを得てアルモディスを連れ去り、二人はすぐに結婚したという。この結婚は、双方の前の配偶者が存命のままであった。ただし、この結婚の時期や離婚の経緯には異なる記述があり、ポンスが1053年にアルモディスと離婚したともいわれる。ポンスとアルモディスの間にはギヨーム4世、レーモン4世、サン=ジル修道院長となったユーグ、メルグイユ伯ピエールに嫁いだアルモディスらが生まれた。最初の妻との子ポンスは1063年に没したとされるが、その存在には疑問も残る。ポンスはビゴール伯の娘マージョリーと三度目の結婚をしたともいわれる。
ポンスは1060年か1061年初めにトゥールーズで死去し、サン=セルナン教会に葬られたとされる。1063年没とする説もある。遺言では所領のすべてを息子ギヨームに遺し、ギヨームが男子なく没した場合はすべて末子レーモンのものになると定めたといわれる。二度目の結婚の長男ギヨーム4世は1061年から1094年まで、レーモン4世はその後1094年から1105年までトゥールーズ伯となった。
同じ年に亡くなった人物
- アンリ1世 (フランス王) (1060年没)
- ギーゼラ・フォン・バイエルン (1060年代没)
- エマ・ド・プロヴァンス (1060年代没)
- ジョフロワ2世 (アンジュー伯) (1060年没)
- エームンド (スウェーデン王) (1060年没)
同じ地域に関係する人物
- トーマス・スティルチェス (1894年没)
- Henri Anspach (1979年没)
- ポール・サバティエ (1941年没)
- Maurice Larrouy (1968年没)
- ヴェニアミン・ジェコフスキー (1953年没)