伝記
アンドラーシュ1世は、1015年頃(1020年頃とする説明もある)に生まれ、1060年12月6日以前に没した、ハンガリー王(在位1047年〜1060年)である。エンドレ1世ともいい、アールパード家の傍系の出身で、15年に及ぶ亡命生活ののち、異教徒のハンガリー人が起こした大規模な反乱のさなかに王位に就いた。即位後は王国のキリスト教化を強く進め、神聖ローマ帝国に対するハンガリーの独立を守ろうとした。
父は初代国王イシュトヴァーン1世の従弟にあたるヴァズル公で、アンドラーシュはその次男として生まれた。母はおそらく、なお異教の装束を身につけていたヴァズルの側室であったとされる。1031年9月2日、イシュトヴァーン1世の一人息子イムレが猪狩りの事故で死んだ。王は、キリスト教化が半ばしか進んでいない国を異教へ戻すまいとし、妹の息子でヴェネツィア元首の子であるオルセオロ・ペーテルを後継にしようと図った。ところがヴァズルは王の殺害をもくろむ陰謀に加わったと疑われ、捕らえられて目をえぐられ、耳に熱した鉛を注がれて殺された。三人の息子は国外へ逃れた。当時のハンガリーの氏族社会では長子相続は採られず、男系の年長者から後継を選ぶ慣行が好まれた。そのため、本流と対立していたアンドラーシュの系統は、在位の王にとって危険な存在だったのである。
兄弟はまずボヘミアへ、次いでポーランドへ逃げた。ポーランドでは末弟ベーラがピャスト家の王女と結婚したが、アンドラーシュと兄レヴェンテは、王家と縁続きとなったベーラの陰にいると感じてキエフへ移った。そこでアンドラーシュは、キエフ大公ヤロスラフ1世の娘アナスタシヤと結婚した。一方ハンガリーでは、1038年にイシュトヴァーン1世が没したのちペーテルが王位を継いだが、1041年に義弟アバ・シャームエルに追われ、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の軍事援助で復位した。その代わりに帝国への従属を表明し、さらに先王の王妃ギーゼラを国から追い出したため、聖職者の支持も失った。ゲラルド司教らは兄弟に手紙を送って呼び戻すことにしたが、二人が到着したとき、異教徒を中心とする大反乱が起きていた。兄弟はアバウージヴァールで反乱側と同盟し、国外へ逃れようとしたペーテルは捕らえられて両目を潰された。
年代記によれば、異教にとどまる道を選んだレヴェンテと合意のうえでアンドラーシュが国を治めることになり、兄の死後、1047年に戴冠した。それでも彼はキリスト教化の政策を続け、イシュトヴァーン1世の法令を強め、反乱側が聖職者を殺害したことから外国人聖職者を招いた。帝国との関係は緊張したままで、臣従を申し出ても皇帝は和平を拒んだ。そこで弟ベーラを呼び寄せ、王国の三分の一の支配を委ねて戦いに備えた。1051年に遠征してきた皇帝軍は、ヴェールテシュの丘で敗れた。
1057年、アンドラーシュは5歳の嫡子シャラモンを王として戴冠させ、後継を確実にしようとした。しかし、かつて後継者に指名されていたベーラは激怒して宮廷を去った。1058年9月に新皇帝ハインリヒ4世と和平を結んだ。その後ベーラを説得しようとしたが、ベーラはポーランドへ発って兵を集めた。アンドラーシュは病で歩行もおぼつかなくなり、ポーランド軍を率いて戻ったベーラに敗れた。オーストリアへ逃げる途中、峠で馬上から倒れて捕らえられ、ジルクへ連行されて死に、ティハニ修道院に葬られた。シャラモンは自ら王として即位することなく、ハンガリー王家ではベーラの系統が優勢となり、アンドラーシュの血はポーランドのピャスト家に残った。
同じ年に亡くなった人物
- エームンド (スウェーデン王) (1060年没)
- グンヒルド (1060年没)
- チャグリー・ベク (1060年没)
- エマ・ド・プロヴァンス (1060年代没)
- ギーゼラ・フォン・バイエルン (1060年代没)
同じ地域に関係する人物
- チェルマーク・ヨージェフ (2001年没)
- Sandor Kisfaludy (1844年没)
- Peter Rusoran (2012年没)