HISTORICAL PERSON · 1053年没

Saint Procopius of Sazava

チェコの聖職者。妻子を持った後ベネディクト会に入り、サーザヴァ川岸の洞窟で隠修士として暮らした。同地の修道院の初代院長を務め、1204年に列聖され、ボヘミア王国の国民的な聖人とみなされた。

生涯
1053年没
死亡地
チェコ共和国(中央ボヘミア州 / Sazava)
出生地
チェコ共和国(Chotoun)
出典
世界地図
チェコ共和国(中央ボヘミア州)

伝記

サーザヴァのプロコプは、1053年3月25日に没したチェコ(ボヘミア)の聖職者・隠修士で、サーザヴァ修道院の創設者として知られる。東方正教会とローマ・カトリック教会の双方で聖人として崇敬されており、ボヘミア王国の国民的な聖人とも見なされるようになった。生涯について確実なことはほとんど分からず、以下は主に聖人伝の伝承による。

伝承によれば、970年ごろ、プラハ東方のクジーム近郊にある中央ボヘミアの村ホトゥニで生まれた。両親はヴィートとボジェナといい、おそらく貴族でホトゥニの城を所有していたとされる。プラハで学んで叙階され、結婚してイムラム(エメラム)という息子をもうけた。キリスト教化はキュリロスとメトディオスによってなされ、東西教会の分離もまだ起きていなかったため、妻帯は聖職者の身分と矛盾しなかったと説明される。彼が生きたのはプシェミスル家とスラヴニーク家が争った時代であり、この争いが隠遁の決意に関わったかもしれないが、因果関係は確かめられない。

その後、おそらくブジェヴノフ修道院でベネディクト会に入り、やがて荒野に退いた。まずプラハ近郊のイノニツェのダレイェの洞窟に住んだとされ、そこで福音書を書き写したという。さらにサーザヴァ川の谷に移って、川岸の洞窟で隠修士として暮らし、しだいに同じ志の隠修士たちが集まった。民間には、農民たちが彼が悪魔を鋤につないで畑を耕すのを見た、という伝説もある。ボヘミア公オルドジフ、続いてその後継者ブジェチスラフの庇護を受け、仲間の修道士の助けで修道院を建てた。この隠修士の共同体は1032年か1033年にボヘミア公によってベネディクト会の修道院として組織され、これがサーザヴァ修道院、別名聖プロコプ修道院である。彼は最初の修道院長として約20年間、死に至るまで務めた。この修道院は、ボヘミアで古代スラヴ語による典礼が最後まで行われた場所のひとつで、この言語も長く教えられた。

12世紀には聖人としての地方的な崇敬が記録され、最初の伝記『小伝』が書かれた。1204年にローマ・カトリック教会によって列聖されたが、その手続きについては議論が残る。教皇インノケンティウス3世が列聖したとも、サーザヴァで遺体を祭壇に移した典礼の際に事実上の列聖が行われたともいわれる。チェコ人として最初の列聖で、国の守護聖人の一人とされる。13世紀後半の『古伝』、14世紀の『大伝』が生涯と奇蹟を記し、遺骸は1588年にプラハ城の諸聖人教会に移された。

後世、ランスの福音書写本のキリル文字の部分が、14世紀に彼の作とされ、カール4世はグラゴール文字による続きを作らせた。18世紀にはサーザヴァの修道士フーゴ・ファブリツィウスが新たな伝記を著した。サーザヴァ修道院はフス戦争で破壊されたが、17世紀に教会が再建され、修道院の建物は城館に改められた。ボヘミアには彼に捧げられた教会が数多くあり、プラハのカレル橋にはフェルディナント・ブロコフによる18世紀初めの像が立つ。彼の最初の隠れ家とされる「聖プロコプの洞窟」は、1940年代にメトデイ・クレメントによって発見された。バロック期のフレスコ画「隠修士プロコプとオルドジフ公の出会い」などは、2000年代に19世紀の塗装の下から見つかっている。2017年には、ロシア正教会の聖会議の決定で、その名が同教会の聖人暦に加えられた。

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