伝記
ボニファーチオ・ディ・カノッサは、985年ごろに生まれ、1052年に没した北イタリアの有力な領主である。カノッサ伯、のちにトスカーナ辺境伯を務め、同時代の北イタリアでもっとも強大な諸侯とされる。カノッサ家はランゴバルド族の家系で、一族の居城はカノッサ城にあり、モデナを数代にわたって保持していた。父はテダルド、母はウィラ(ボローニャ出身ともボゾン家の出身ともいわれる)で、ボニファーチオは次男にあたる。兄テダルトはアレッツォ司教となった。
若いころから父のもとで政務に関わったらしく、1004年には辺境伯の称号で修道院ポリローネに土地を寄進している。宮廷はマントヴァに置き、この町を文化の都に変えたと伝えられ、その華やかな催しや宴は後世にも同時代にも驚嘆されたという。父は兄弟たちをさしおいて彼を後継者に指名した。1014年には皇帝ハインリヒ2世を助け、イタリア王位を主張したイヴレーア辺境伯アルドゥイーノを討ち、1016年にもトリノ辺境伯と戦う皇帝の側に立った。1020年には弟コンラートの反乱を破り、のち和解した。弟はロンバルディアの敵対勢力にそそのかされたが、兄弟はレッジョ近郊のコヴィオロで共に戦って勝った。ただしコンラートはこの戦いで戦死したとされ、没年は1030年と伝わる。
皇帝コンラート2世がイタリア王位を得ようと他の候補と争ったとき、ボニファーチオは彼を支持した。コンラートがルッカで抵抗を受けた末に、当時のトスカーナ辺境伯ライニエーリを廃してその領地と称号をボニファーチオに与えたとみられ、時期は1027年とされる。これによって彼はポー川中流から教皇領の北境に至る地域でもっとも有力な人物となった。その後もパヴィーアとパルマの反乱を鎮め、1034年にはブロワ伯ウード2世との戦いで皇帝側につき、1037年の反乱鎮圧にも協力し、1038年にはフィレンツェへ向かう皇帝を迎えた。1043年には帝国への奉仕の報賞としてスポレートとカメリーノの公位を受けた。一方で、強大になった彼の勢力に皇帝は圧力を加えたともいう。
最初の妻はベルガモ宮中伯ジザルベルト2世の娘リキルダで、娘をもうけたが夭逝した。1036年、皇帝の息子ハインリヒの結婚式に出席したナイメーヘンで、皇后ギーゼラの姪で養女のベアトリーチェ・ディ・ロタリンジャと出会い、再婚した。彼女は上ロートリンゲン公フリードリヒ2世の娘で、ロレーヌの所領を持参した。この結婚で3人の子が生まれ、ベアトリーチェとフェデリーコは早世したが、マティルデは後にトスカーナ女伯となった。
逸話としては、1039年に皇帝ハインリヒを助けて戻る途中、穀物畑を荒らして住民の反発を受け、報復に若者の耳と鼻を削ごうとした場面が知られる。若者の母が息子の体重と同じ重さの銀での助命を申し出たが、彼は自分は商人ではなく兵士だと述べ、鉄で捕えたものを銀で買い戻させはしないと答えたという。1046年にはハインリヒ3世夫妻をピアチェンツァで手厚くもてなした。晩年はマントヴァ近郊のサン・マルティーノ・アッラルジーネでの狩りの途中に暗殺され、没年月日は1052年5月6日とされるが、1056年とする記述もある。暗殺者はオパルマのスカルペッタ・デ・カネヴァリといわれ、黒幕は皇帝ハインリヒ3世ともされる。遺体はマントヴァに葬られた。未亡人となったベアトリーチェは、1054年にロートリンゲン公ゴットフリート3世と再婚した。
同じ年に亡くなった人物
- ウラジーミル・ヤロスラヴィチ (ノヴゴロド公) (1052年没)
- グアイマーリオ4世・ディ・サレルノ (1052年没)
- 范仲淹 (1052年没)
- エマ・オブ・ノーマンディー (1052年没)
同じ地域に関係する人物
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ (1478年没)
- マティルデ・ディ・カノッサ (1115年没)
- フェデリーコ1世・ゴンザーガ (1484年没)
- ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ (1612年没)
- マルゲリータ・ゴンザーガ (1564-1618) (1618年没)