伝記
アンティオコス1世ソテルは、セレウコス朝の王で、在位は紀元前281年から紀元前261年である。セレウコス1世の子で、母は、アレクサンドロス大王が部下の将軍たちに妻として与えた王女の一人、スピタメネスの娘アパマだった。セレウコス朝は、アパマをダレイオス3世の娘だと称したが、これは自らをアケメネス朝とアレクサンドロスの継承者として正当化するための作り話とされる。ソテルは「救済王」を意味する称号である。
紀元前294年ごろ、父セレウコス1世からユーフラテス川東方諸州の王として共同統治者に任じられた。同じ年、父の後妻であったデメトリオス1世の娘ストラトニケと結婚した。古代の史料は、恋煩いで死にかけていた息子のために、年老いた父がこの結婚を取り計らったと伝える。この恋物語は後に、ダヴィッドやアングルなど新古典主義の画家たちにしばしば描かれた。王太子だったころの彼が、荒廃したバビロンのエサギラ神殿の再建を決めたと伝える年代記もあり、紀元前268年にはボルシッパのエジダ神殿の礎も据えた。メソポタミアの古い称号である「宇宙の王」を帯びたことが知られる最後の支配者とされる。
紀元前281年に父が暗殺されると、広大な帝国をまとめる仕事は容易でなかった。シリアではほとんどすぐに反乱が起こり、彼は父の暗殺者であるプトレマイオス・ケラウノスと和を結び、マケドニアとトラキアを事実上手放した。小アジアでは、ビテュニアやカッパドキアを支配するペルシア系の王家を屈服させられなかった。紀元前270年代の末にガリア人が小アジアへ侵入し、彼が紀元前275年にインド象を使ってこれを破ったことが、救済王と称される由来とされる。イオニアの諸都市がそう呼んだという。父と同じく都市の建設とギリシア人の入植を奨励し、これはパルティアやガリア人に対抗する上でも優れた政策で、ヘレニズム文化の拡大にも寄与した。アフガニスタン北部のアイ・ハヌムも、近年の分析では、紀元前280年ごろ彼が建てたと強く示唆されている。
外交では、インドのマウリヤ朝のビンドゥサーラと友好関係を保ち、使節としてデイマコスを派遣した。ビンドゥサーラが甘いぶどう酒と干しいちじくとソフィストを求めたのに対し、前二者は送るが、ギリシアの法はソフィストの売買を禁じていると答えた逸話が伝わる。アショーカ王碑文に出るギリシア王は、彼か、子のアンティオコス2世とされている。
しかし父ほどの軍事的才能はなかったようで、コイレ・シリアの帰属をめぐるエジプトのプトレマイオス2世との第1次シリア戦争(紀元前274年から271年)では、フェニキアと小アジアの海岸地域を奪われたとされる。一方で、この戦争は両国の領域の輪郭を大きくは変えなかったともいう。紀元前268年から267年には、東方で総督を務めていた長子セレウコスを、反乱の罪で処刑した。晩年は、勢力を伸ばしていたペルガモン王国と戦って紀元前262年ごろサルディス付近で敗れ、間もなく紀元前261年6月2日に世を去った。失意のうちの病死とされ、次男アンティオコス2世テオスが後を継いだ。ストラトニケとの間には五人の子があり、長子セレウコス、ラオディケ、アパマ、小ストラトニケ、アンティオコス2世が知られる。ラオディケはキュレネ王メガスに嫁ぎ、エジプトのプトレマイオス3世の王妃ベレニケ2世の母となった。
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