HISTORICAL PERSON · 1899年没

レオ・フォン・カプリヴィ

プロイセンおよびドイツの軍人・政治家。ビスマルクの後を継ぎ、1890年3月から1894年10月まで第2代帝国宰相を務めた。

生涯
1899年没
死亡地
ポーランド共和国(ルブシュ県 / Skorzyn, Lubusz Voivodeship)
出生地
ドイツ連邦共和国(Q15782821)
出典
世界地図
ポーランド共和国(ルブシュ県)

伝記

ゲオルク・レオ・フォン・カプリヴィは、1831年2月24日にベルリンのシャルロッテンブルクで生まれ、1899年2月6日に没した、プロイセンおよびドイツの軍人、政治家である。ビスマルクのあとを継いで、1890年3月から1894年10月まで第2代ドイツ帝国宰相を務めた。父ユリウス・レオポルトは最高裁判所の判事で、貴族院の議員でもあった。生家はイタリア系で、17世紀のオスマン・ハプスブルク戦争の時期に貴族に叙され、のちにシュレージエンのランダウへ移ったとされる。母エミーリエはギムナジウム校長の娘で、その校長はビスマルクの教師でもあった。大地主ではない出身が多数のプロイセンの上層階級とは異なり、本人も「土地も藁もない」と述べた。独身を通し、親しい友人は少ない人柄だった。

1849年に士官学校を出て軍に入り、少尉のとき参謀本部の学校に学んだ。1860年からは参謀本部の測地部で大尉となり、1864年の第二次シュレースヴィヒ戦争に従軍した。1866年の普墺戦争には、フリードリヒ・カール王子の参謀の少佐として加わった。1870年の普仏戦争では第10軍団の参謀長を務め、モルトケの最も優れた教え子の一人との評判を得て、中佐となった。マルス=ラ=トゥールの戦いやメス攻囲戦、ボーヌ=ラ=ロランドの戦いで活躍し、プール・ル・メリット勲章を受けた。戦後は陸軍省で兵舎に関する法案の起草やモーゼル銃の導入にかかわり、1882年にメッツに駐留する第30歩兵師団長となった。

1883年、ビスマルクの政敵だったシュトッシュの後任として帝国海軍本部長官に就いた。人事はビスマルクによるものだったが、海軍将校たちには不評で、アメリカの歴史家マッシーによれば、カプリヴィは海軍に関心がなく、制服の階級章の紋章も知らなかった。それでも軍官僚として組織管理の才を発揮し、魚雷艇の開発と製造を重視した。しかしこれは、より大きな戦艦を望むヴィルヘルム2世との対立の原因となり、1888年に辞任して、陸軍に戻った。1890年3月、ビスマルクの解任を伝えられ、後任の帝国宰相となった。本人は「どんな愚か者がビスマルクの跡を継ぐことなど、あえてするだろうか」と語っていたという。

内閣は「新しい方針」を掲げ、内政では社会民主党との融和を探り、外交では親英路線を取った。1890年7月のヘルゴラント=ザンジバル条約で、ザンジバルと引き換えにヘルゴラント島を得て、ドイツ領南西アフリカでは現在のカプリヴィ回廊となる地域を併合した。1890年に産業裁判所を設立し、13歳未満の児童の雇用を禁止した。1891年には日曜労働の禁止なども実施し、関税を引き下げて自由貿易を進めたが、保守層や植民地主義者の反発を招いた。ヴィルヘルム2世と外務省のホルシュタインの主導で独露再保障条約は更新されず、のちにロシアとフランスが結びつくことになった。1892年に教育法案が保守党の反対で否決され、ヴィルヘルム2世との衝突も増えて、4年間に12回近く辞任を申し出たという。1894年に宰相を辞し、引退後は首相時代の経験を著すことも語ることもなく、1899年に世を去った。

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