HISTORICAL PERSON · 1042年没

ミカエル5世

東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝で、ミカエル4世の養子。宦官ヨハネスに擁立されたが、親政のため逆にヨハネスを追放した。皇太后ゾエの追放を図って市民の反乱を招き、廃位され盲目にされて追放された。

生涯
1042年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / ストゥディオス修道院)
出生地
トルコ共和国(パフラゴニア)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

ミカエル5世(通称カラファテス、1015年ごろ〜1042年8月24日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝である。在位は1041年から1042年。ミカエル4世の養子で、「カラファテス」は「繋ぎ」「隙間の詰物」を意味する渾名であり、在位期間の短さに由来するともいわれる。一方で、父が船の隙間を詰める職人(カラファテス)の出であった低い出自を蔑む呼び名だったとも伝えられる。

ミカエル5世の家は、パプラゴニア出身の伯父ヨハネス・オルファノトロフォス(孤児院長)が一族を宮廷に引き上げたことで台頭した。ヨハネスは皇帝官房の官僚から聖職の道に進み、コンスタンティノポリスの孤児院を預かったためにこの名で呼ばれた。きわめて野心的で、一族のすべてに宮廷の要職を得させようとした。兄弟五人のうち、ヨハネス自身とコンスタンティノス、ゲオルギオスは宦官で、帝位には就けなかった。残る二人、ニケタスとミカエルは「髭のある」兄弟と呼ばれた。そのミカエルが皇后ゾエの愛人となり、のち結婚して皇帝ミカエル4世(在位1034〜1041年)となった。ゾエは妹テオドラとともにマケドニア王朝の最後の血筋であり、その手を得ることが権力を得ることを意味していた。ヨハネスの妹マリアは、船の隙間を詰める職人から身を起こしたステファノスに嫁いでいた。ステファノスは蓄財してこの一族に連なるようになり、1038年にはシチリアでゲオルギオス・マニアケスに代わったが、将校としては凡庸でサラセン人の侵攻を防げなかった。ミカエル5世はこの夫妻の子であり、ミカエル4世の甥にあたる(従兄弟ともいわれる)。ミカエル4世に男児がなかったため、養子に迎えられた。

ミカエル4世は若いころから癲癇に苦しみ、晩年には全身の浮腫も加わっていた。それでも1041年にブルガリア人に対する遠征を行い、成功させたが、疲れ果てて帰還し、死が近いことは宮廷、とりわけヨハネスの目にも明らかになった。権力を握り続け「パプラゴニア王朝」を築こうとしたヨハネスは、皇帝にミカエルをカエサル(副帝)に任じさせ、さらに皇后ゾエにその養子にするよう勧めた。ゾエはこれを受け入れ、ブラケルナエの聖母教会での儀式で、ミカエルをカエサルに昇格させた。ミカエルは、あまり野心を見せないように目立たない暮らしを続け、公式の儀式でも控えめに振る舞ったという。ミカエル4世は死期を悟ると退位し、聖コスマス・ダミアノス修道院で修道士となって世を去った。ヨハネスは臨終まで枕元にとどまり、死後も3日そばにいた。

1041年、ミカエル4世の病死後、宦官ヨハネスによってミカエル5世は皇帝に擁立された。ヨハネスは新帝を傀儡として操るつもりだったらしいが、ミカエル5世は親政を行うため、逆にヨハネスを追放した。さらに、邪魔になる皇太后ゾエをも追放しようとした。ミカエル5世は宮廷貴族の特権を廃止し、行政を根本から改革しようとしたが、出自の低さから軽蔑された。ゾエはマケドニア王朝の嫡子として民衆に尊敬されていたため、首都の市民は反発して反乱を起こした。ヨハネスの追放は税負担を課した者への反感から何の反応も生まなかったが、ゾエの追放は革命を引き起こした。ミカエル5世は伯父コンスタンティノスとともに首都を逃れ、ストゥディオス修道院に避難したが、民衆に追いつかれて捕らえられ、廃位されて両眼をえぐられ、別々の修道院に幽閉された。その没日は1042年8月24日とされる。この失脚は、ビザンツ政治における首都民衆の影響力を示す例といわれる。

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