伝記
オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼンは、1815年4月1日にプロイセン王国に属する土地で生まれたドイツの政治家である。地主貴族ユンカーのフェルディナントと、学者の家系であるメンケン家出身の母ヴィルヘルミーネの第四子であった。文官を目指してゲッティンゲン大学とベルリン大学で法学を学び、1835年に卒業して官吏試補となったが、職務になじめず、1839年からはユンカーとして地主の仕事をした。1847年に身分制議会の代議士となって政界に入り、1849年にはプロイセン衆議院にも当選した。強硬保守派として行動し、1848年革命で高まった自由主義やナショナリズム、国民主権の憲法によるドイツ統一の動きを批判した。
1851年にプロイセン全権公使となり、外交官に転じた。ドイツ連邦議長国オーストリアとの利害対立の最前線に立つなかで、オーストリアを排除した小ドイツ主義による統一の必要を痛感し、正統主義の立場から離れていった。1858年にヴィルヘルム王子が摂政となって自由主義的保守派の内閣が発足すると、強硬保守派と見られた彼は駐ロシア大使に左遷された。1861年に即位したヴィルヘルム1世と陸軍大臣ローンが軍制改革の予算をめぐり衆議院の自由主義派と対立を深めるなか、1862年に、無予算統治を決意した国王によって、ローンの推薦を受けてプロイセン首相に任命された。首相に就任すると、衆議院予算委員会で鉄血演説を行い、軍拡の必要を訴えたが、逆に批判を受けた。この演説で「鉄血宰相」の異名がついた。自由主義派の支持が得られないとみると、無予算統治で軍制改革を断行した。
国内の亀裂は、小ドイツ主義統一に向けた三度の戦争の勝利で解決に向かう。最初は1864年の、シュレースヴィヒとホルシュタインの両公国をめぐる、オーストリアとともに起こした対デンマーク戦争であった。次いで両公国の帰属をめぐりオーストリアと対立し、1866年に普墺戦争を始めて短期間で勝利し、オーストリアに寛大な講和条件を示して早期に終結させた。これでオーストリアをドイツ問題から排除し、プロイセン一国覇権の北ドイツ連邦を樹立した。1870年にはスペイン王位継承問題を利用し、フランスが一方的に宣戦したという状況をつくって普仏戦争に持ち込んだ。セダンの戦いでナポレオン3世を捕虜にし、1871年1月にヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉して、ドイツ帝国の樹立に合意を取り付け、ヴィルヘルム1世を皇帝に即位させた。
帝国宰相となったビスマルクは、自由主義勢力と協力して近代化改革を行い、カトリックを弾圧する文化闘争を進めたが、のちに終結させた。社会主義者鎮圧法で社会主義労働者党を厳しく弾圧する一方、労働者が社会主義労働者党に流れるのを防ぐため、1883年に疾病保険法、1884年に労災保険法、1888年に障害・老齢保険法を成立させ、世界初の全国民強制加入の社会保険制度をつくった。外交ではフランスの孤立に腐心し、三帝同盟やベルリン会議、1882年の三国同盟、1887年の独露再保障条約によって、いわゆる「ビスマルク体制」を築いた。ヴィルヘルム2世が即位すると、社会主義者鎮圧法や労働者保護立法をめぐり意見が合わず、1890年3月に辞任した。1898年7月30日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- エリノア・マルクス (1898年没)
- ハイラニディル・カディネフェンディ (1898年没)
- コンスタンス・ロイド (1898年没)
- ローレンス・S・ロス (1898年没)
- アクセル・グドブラン・ブリュット (1898年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイーセ・ア・ダンマーク (1750-1831) (1831年没)
- クリスチャン5世 (デンマーク王) (1699年没)
- フレゼリク2世 (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公) (1587年没)
- オットー・チリアクス (1964年没)
- カール・フォン・ヘッセン=カッセル (1836年没)