伝記
コンラート2世は、ザーリアー家の出身でケルンテン公およびヴェローナ辺境伯を務めた人物である。990年頃に生まれ、1039年7月20日に没した。同名の年上の従兄コンラート2世、のちの皇帝と区別するため、若公と呼ばれる。ケルンテン公としての在位は1035年から1039年とされるが、1036年から死去までとする説明もある。
父はケルンテン公でヴェローナ辺境伯でもあったコンラート1世、母はコンラディン家のシュヴァーベン公ヘルマン2世の娘マティルデである。生年は恐らく990年7月12日とされ、名は曾祖父にちなむ。ただし別の説明では生年を1003年頃とする。この時期、この一族はまだ自らをザーリアー家とは名乗っていなかった。弟には1034年から1045年までヴュルツブルク司教を務めたブルーノがいた。1011年に父が亡くなったとき、コンラートはまだ幼く、ドイツ王ハインリヒ2世はケルンテン公位をアダルベロ・フォン・エッペンシュタインに与えた。その代わりにコンラートは、一族の本領であるナーエガウ、シュパイアーガウ、ヴォルムスガウの伯領を継いだ。シュヴァーベン公ヘルマン2世の遺領をめぐる争いでは、従兄コンラートを支持してアダルベロと対立し、1019年にウルム近郊の戦いで勝利をおさめた。この小さな武力衝突によって、アダルベロはシュヴァーベン公位への野心を捨てざるを得なくなったともいわれる。
1024年に皇帝ハインリヒ2世が亡くなると、若公は、1002年に父コンラート1世や祖父オットーが候補となったのと同様に、ドイツ王の候補の一人となった。ロートリンゲン人やケルン大司教ピルグリムの支持を得たともいわれる。しかし宮廷付き神父ヴィポを通じて、従兄コンラートのために王位への権利を放棄し、従兄が王に選ばれた。その代償として、ケルンテン公位の継承を約束されたとみられる。それでも若公は約束だけで満足せず、翌年には二人の公による王への反乱を支持したともいわれる。1027年に王が戴冠のためローマへ向かう間に、二人のコンラートの対立は表面化し、同年の秋、9月に若公は王に服従した。
1035年5月、ケルンテン公アダルベロが皇帝との不和から反乱を起こし、公位を奪われた。長い交渉の末、弟ブルーノの仲介もあって、若公がその後任に選ばれてケルンテン公位を受けた。この就任の年は1035年とも1036年ともされる。ただしシュタイアーマルク辺境伯の地位は与えられなかった。1036年から1037年にかけては、皇帝のイタリア遠征に従った。この遠征は、ミラノ大司教アリベルトに関わる事態に皇帝が介入したものとされる。若公はアクイレイアの総大司教ポッポとともに、逮捕された大司教アリベルトの拘留に加わったが、アリベルトはすぐに逃亡した。
コンラートはイタリア遠征の後まもなく、1039年に没し、ヴォルムス大聖堂で父母の隣に葬られた。従兄の皇帝コンラート2世は、その約1か月半前に亡くなっていた。そのため若公の跡を継ぐ者は、皇帝の子であるドイツ王ハインリヒ3世となった。結婚した記録はないが、1056年にクノという人物がブルッフザールを国王ハインリヒ4世に売却した記録があり、クノは若公の子ではないかともみられる。ただしブルッフザールはそれまで教会の所有であったため、クノはシュパイアー司教コンラートの子であった可能性が高いともされる。
同じ年に亡くなった人物
- ウンスリー (1039年没)
- ウード・ド・ポワティエ (1039年没)
- アダルベロ (ケルンテン公) (1039年没)
- ディルク3世 (ホラント伯) (1039年没)
- コンラート2世 (神聖ローマ皇帝) (1039年没)
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